巨人ゴンザレスがドーピング違反で解雇、元巨人のゴンザレスは落雷で死去。(哲




2008ソスN5ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2752008

 打ち返す波くろぐろと梅雨の蝶

                           一 民江

週22日の沖縄の梅雨入りを皮切りに、今年もじわじわと日本列島が梅雨の雲におおわれていく。先日、雨降りのなかで、今までに見た最高に美しい空の思い出を話していたら、「南アルプス甲斐駒ケ岳で見た空は青を通り越して黒く見えた」という方がいた。あまりに透明度が高く、その向こうにある宇宙が透けて見えたのだと思ったそうだ。それが科学的根拠に基づいているのかそうでないかは別として、聞いている全員がふわっと肌が粟立つ思いにかられた。美しさのあまり、見えないはずの向こうが見えてしまうという恐怖を共有したのだった。掲句の波も、見えるはずのない海の奥底を映し出してしまったような恐ろしさがある。そこに梅雨のわずかな晴れ間を見つけ、蝶が波の上を舞う。春の訪れを告げる軽やかな蝶たちと、夏の揚羽などの豪奢な蝶の間で、梅雨の蝶はあてどなく暗く重い。タロットカードに登場する蝶は魂を象徴するという。もし掲句のカードがあったとしたら、「永遠に続く暗雲に翻弄される」とでも言われそうな衝撃の絵札となることだろう。〈よく動く兜虫より買はれけり〉〈梅を干す梅の数だけ手を加へ〉〈送り火のひとりになつてしまひけり〉『たびごころ』(2008)所収。(土肥あき子)


May 2652008

 中肉にして中背の暑さかな

                           加藤静夫

の句、どことなくおかしい。「おかしい」と言うのは、変であり滑稽でもあるという意味だ。すらりと読み下ろせば、この「中肉にして中背の」形容は「暑さ」に掛かることになる。つまり、暑さを擬人化していると読める。しかしいくら擬人化しているとはいえ、中肉中背の暑さとは不可解だ。どんな暑さなのか。強いて言えば季節に頃合いの暑さと受け取れなくもないけれど、その暑さの程度はわかったようでわからない。でも読者は馬鹿じゃないから、ここで瞬時に読みの方角を転換して、中肉中背とはすなわち作者のことであり、その作者が感じている暑さのことだと頭を切り替える。が、そう読んでしまうと、さあっとシラける。せいぜいが肥満体にして長身の人の暑がっている姿などを想像し、それに比べれば楽そうだなどと思うだけで、句全体はさして面白くなくなるからだ。そこでまた馬鹿じゃない読者は最初の読みに戻り、いや待てよとばかりに次の読みに行き、そうこうしているうちに、この読み方の揺れ自体に句のねらいがありそうだと気付き、気付いたときには作者の術中にはまってしまっているのである。つまり前者と後者の読みが揺れながら重なったり離れたりすることで、この句はようやく精彩を発揮するというわけだ。そこらへんに、変であり滑稽であると感じさせる仕掛けの秘密があると読んだ。『中肉中背』(2008)所収。(清水哲男)


May 2552008

 朝顔やすこしの間にて美しき

                           椎本才麿

顔は秋の季語ですが、気分的には夏に咲く花という感じがします。思えばこの花はいつも、生活にごく近いところで咲いていました。子供の頃は、ほとんどの家がそうであったように、我が家もとても質素な生活をしていました。それでも小さな家と、小さな庭を持ち、庭には毎年夏になると、朝顔の蔓(つる)が背を伸ばしていたのでした。子供の目にも、朝に咲いている花は、その日一日の始まりのしるしのような気がしたものです。考えてみれば、「朝」という、できたての時の一部を名前にあてがわれているなんて、なんと贅沢なことかと思います。この句では、「朝」と、「すこしの間(ま)」が、時の流れの中できれいにつながっています。「朝顔の花一時(ひととき)」と、物事の衰えやすいことのたとえにも使われているように、句の発想自体はめずらしいものではありません。それでもこの句がすぐれていると感じるのは、「すこしの間」というものの言い方の素直さのためです。たしかに、少しの間だから儚(はかな)いのだし、儚さにはたいてい美しさが、伴うのです。『俳句の世界』(1995・講談社)所載。(松下育男)




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