iPhoneが日本にも登場。携帯電話というよりも携帯パソコンだな。(哲




2008ソスN6ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1162008

 蛞蝓の化けて枕や梅雨長き

                           高橋睦郎

や、蛞蝓(なめくじ)の本物になど、なかなかお目にかかることはできなくなった。じめじめした梅雨どき、まあ、今なおいるところにはいるけれど。睦郎の連載「百枕」については、2007年7月にも一句とりあげてコメントしたのでくり返さない。その後媒体に変更があって、現在は小澤實の「澤」に連載されている。掲出句は「梅雨枕」という題のもとに十句発表されたなかのもの。この句とならんで「此處はしも蛞蝓長屋梅雨枕」の一句がある。「蛞蝓長屋」は古今亭志ん生が昔住んだ、知る人ぞ知る「なめくじ長屋」を指している。業平橋近くの湿地帯に建てられたこの長屋に、赤貧洗うが如き志ん生は蛞蝓や蚊柱に悩まされながら、家族と昭和三年から七年間ほど住んだ。一晩で蛞蝓が十能にいっぱいとれたという伝説的な長屋。蛞蝓はおカミさんの足に喰いつき、塩などかけても顎で左右によけて這い、夜にはピシッピシッと鳴いた、と志ん生は語っていた。睦郎は好きだったという志ん生や「なめくじ長屋」にもふれているが、蛞蝓が「枕」に化けるというのだから豪儀な句ではないか。この枕、気持ち悪さを通り越して滑稽千万な味わいがある。「なめくじ長屋」の縁の下あたりには、枕ほどの大きさの蛞蝓の主(ぬし)が息を潜めていたかもしれない。蛞蝓が化けたら、いかにも昔風のごろりとした枕にでもなりそうだ。まさしく梅雨どきのヌラッと湿った枕。「梅雨長き」は時間的長さだけではなく、お化け蛞蝓の「長さ」でもあろう。梅雨・蛞蝓・黴――それらを通過しなければ、乾いた夏はやってこない。「澤」(2008年6月号)所載。(八木忠栄)


June 1062008

 海底のやうに昏れゆき梅雨の月

                           冨士眞奈美

雨の月、梅雨夕焼、梅雨の蝶など、「梅雨」が頭につく言葉には「雨が続く梅雨なのにもかかわらず、たまさか出会えた」という特別な感慨がある。また、前後に降り続く雨を思わせることから、万象がきらきらと濡れて輝く様子も思い描かれることだろう。夕暮れの闇の不思議な明るみは確かに海底の明度である。空に浮かぶ梅雨の月が、まるで異界へ続く丸窓のように見えてくる。ほのぼのと明けそめる暁を「かはたれ(彼は誰)」と呼ぶように、日暮れを「たそかれ(誰そ彼)」と呼ぶ。どちらも薄暗いなかで人の顔が判別しにくいという語源だが、行き交う誰もが暗がりに顔を浸し輪郭だけを持ち歩いているようで、なんともいえずおそろしい。昼と夜の狭間に光りと影が交錯するひとときが、梅雨の月の出現によって一層ミステリアスで美しい逢魔時(おうまがとき)となった。〈白足袋の指の形に汚れけり〉〈産み終へて犬の昼寝の深きかな〉〈噛みしめるごまめよ海は広かつたか〉俳句のキャリアも長い作者の第一句集『瀧の裏』(2008)所収。(土肥あき子)


June 0962008

 継ぎ接ぎて延ばすいのちや梅雨に入る

                           清水基吉

者はこの三月の末に亡くなった。享年八十九。ちょうど一年前の句だ。「継ぎ接ぎて」と、「つぐ」に別々の漢字をあてたところに、この年齢ならではの実感を読み取ることができる。「継ぐ」は親からさずかった命の自然的な継承を意味し、「接ぐ」には入院治療など本人の意思で延命をはかってきたことを指している。両者あいまっての寿命というわけだが、そんな一種のあがきのなかで、今年も梅雨の季節を迎えたと言うのである。この年齢まで来ると、もはや梅雨が鬱陶しいだとか憂鬱だとかという心情的なレベルは越えていて、作者はただ季節の移り変わりの様子に呆然としているかのようである。生きてまた、今年も梅雨を迎えてしまったか……。それはしかし感慨でもなく、ましてや詠嘆でもなく、作者はただうずくまるようにして、そのことを自分に言い聞かせている。高齢の人の偽りのない気持ちがよく出ていて、読者はそこに救われるのである。この句を収めた最後の句集を、作者は生きて見ることはできなかった。『惜別』(2008)所収。(清水哲男)




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