c句

June 2862008

 蚊遣香文脈一字にてゆらぐ

                           水内慶太

年ぶりだろう、金鳥の渦巻蚊取線香を買ってきた。真ん中の赤い鶏冠が立派な雄鳥と、青地に白い除虫菊の絵柄が懐かしい。緑の渦巻の中心を線香立てに差し込んで火をつける。蚊が落ちる位なのだから、人間にも害がないわけはないな、と思いながら鼻を近づけて煙を吸ってみる。記憶の中の香りより、やや燻し臭が強いような気がするが、うすい絹のひものように立ち上っては、ねじれからみ合いながら、夕暮れ時の重い空気に溶けてゆく煙のさまは変わらない。長方形に近い断面は、すーと四角いまま煙となり、そこから微妙な曲線を描いてゆく。作者は書き物をしていたのか、俳句を詠んでいたのか、考えることを中断して外に目をやった時、縁側の蚊取り線香が視野に入ったのだろうか。煙がゆらぐことと文脈がゆらぐことが近すぎる、と読むのではなく、蚊を遣る、という日本古来の心と、たとえば助詞ひとつでまったく違う顔を見せる日本語の奥深さが、静かな風景の中で響き合っている気がした。〈海の縁側さくら貝さくら貝〉〈穴を出て蜥蜴しばらく魚のかほ〉〈星祭るもつとも蒼き星に棲み〉など自在な句がちりばめられている句集『月の匣(はこ)』(2002)所収。(今井肖子)


February 0722012

 探梅の水に姿を盗られけり

                           水内慶太

のない時代、人は水に姿を映していた。それが確かに自分であるという確信は、ずいぶん心もとないものだったことだろう。しかし、姿を映すことは不吉でもあった。後年の写真がそうであったように、真実を映すとき、魂がそちらに移ってしまうと思われていたからだ。春の兆しを探す足元に水があり、なにげなく通り過ぎた拍子にわが身を見た。あまりにありありと映る水面に、ふと姿を盗まれたと思えたのだろう。青過ぎる空を映しているばかりの水は、そこを通過する何人もの姿を飲み込んできたに違いない。探梅という、ゆかしく訪ねる心が、作者を一層感じやすくしている。「月の匣」(2011年3月号)所載。(土肥あき子)




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