j句

July 0672008

 庶務部より経理部へゆく油虫

                           境野大波

ぜ油虫の行き先が経理部なのかと、真っ先に引っかかったのは、わたしが長年経理部で働いているからなのでしょう。庶務部と経理部に、作者がどれほどの思い入れをしてこの句を詠んだのかはわかりません。ただ、経理で日々苦労を重ねてきたものとしては、つい余計なことを考えてしまいます。経理というのは(庶務も同様ですが)仕事の性質上、どんなに完璧に業務をこなしても、営業のようにはなかなか評価してもらえません。と、愚痴はここまで。本題に戻ります。油虫というと、どうしても家の台所を考えがちですが、仕事場にも確かに出ることはあるわけです。廊下の端をすばやくはしり、部屋の中へ消えて行く様子が、目に見えるようです。句の意味はそれだけのことですが、これも確かに季節を感じる心情に違いはありません。こんな瑣末な思いを積み重ねて、日々は成り立っているわけです。ところで、仁平勝さんはこの句の解説に、次のように書いています。「いつも庶務部と経理部をウロウロして、女子社員に軽口をたたいているような男がいる。」つまりそのような男のことも、油虫の意味には含まれているというのです。気がつきませんでした。ともかく男たるもの、せめて職場で「あぶらむし」呼ばわりされぬように、気をつけましょう。『日本の四季 旬の一句』(2002・講談社)所載。(松下育男)


July 1372008

 子が沈め母がしづめて浮人形

                           成田清子

のとしては知っていても、そこにきちんとした名前があてがわれていることを知りませんでした。言葉があとからやってくる、という体験を、この歳になってもするものだなと、思いました。子供の頃に行水や風呂に入って浮かばせて遊んだおもちゃを、「浮人形」と言うのかと、あらためて日本語のひそやかさに感心しました。歳時記にもその記載がありますが、ビニール製のものよりも、やはり思い出すのはブリキ製の金魚でしょうか。毒々しいまでに濃く色づけられた目の大きな金魚の顔を、今でも覚えています。句は、夏の日盛りの下の行水ではなく、日が落ちてからの風呂場の光景のようです。一日の汗をぬぐって、母親と小さな子供が風呂に入っています。どんな場所も遊び場にしなければ気がすまない子供が、浮人形に興じています。けれど、目の前の水面に浮いているものがあれば、母親とて、手のひらで上から押して沈めてみたいという気持ちがおきます。子供の直接的な「沈め」という動作を、わざわざひらがなの「しづめ」と書き換えているところに、母親のおもむろな動きを感じます。浮き上がろうとするおもちゃの力を、心地よく感じながら、同じ動作を子供と幾度も繰り返します。飛び上がるように浮いてくるおもちゃの勢いのよい姿は、それだけでその日の鬱屈を、いくらかは鎮めてくれているようです。『角川 俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


July 2072008

 胸に手を入れて農婦は汗ぬぐふ

                           佐藤靖美

つて読んだ本の中に、こんなことが書いてありました。「「ゾウが汗だく」とか「ライオンが額に汗して……」なんて光景は、ついぞお目にかかったことがない。」そういえばそんなものかと思い、続きを読むと、なぜ人間以外の動物が、汗だくにならないかという理由が書かれていました。いわく、「決定的な答えはひとつ。動物たちは、汗をかいてまで体温を下げなくてはならないようなことを、しないだけだ。」(加藤由子著『象の鼻はなぜ長い』より)。さて、本日の句を読むまでもなく、人間は汗をかいてまで体温を下げなくてはならないようなことを、しているわけです。無理をしなければ生きていけないのが人間、ということなのでしょうか。言うまでもなく、句中の農婦が汗をかいたのには、堂々たる理由があります。農作業中に「胸に手を入れて」汗を拭くという行為は、その動きの切実さゆえに、読者を感動させるものを持っています。まっとうな行為としての重みと尊厳を、しっかりと備えているからなのでしょう。みっともないとか、見た目が悪いとかの判断よりもずっと奥深くにある、人間の根源的な営みを、句は正面から詠もうとしています。『角川 俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


July 2772008

 涼しさや寝てから通る町の音

                           使 帆

語は涼し、夏です。夏そのものはむろん涼しくはありませんが、暑いからこそ感じる涼しさの価値、ということなのでしょうか。この句では、風や水そのものではなくて、町の音が涼しいと詠んでいます。マンション暮らしの長いわたしなどには、到底たどり着くことの出来ないひそやかな感覚です。たしかにマンションの厚い壁に囲まれて暮らす日々には、町の雑多な音は届きません。思い出せば子供の頃には、銭湯へ行く道すがら、開けっ放しの窓から友人の家の団欒がすぐ目の前に見えたものでした。一家で見ているテレビの番組さえ、すだれ越しに見えていた記憶があります。当時は家の中と外の区切りはかなり曖昧で、眠っている枕元すぐのところで、町の音はじかに聞えたものです。この句を読んだときに印象深かったのは、書かれている意味でも、また音の響きでもなく、並んだ文字のたたずまいの美しさでした。実際、柴田宵曲氏の解説を読むまでは、省略された主語がどこにかかっているのかもはっきりとせず、句の意味を正確につかまえることができませんでした。暑い夏の一日を終え、やっと体を横たえて眠ろうとしています。その耳元に、人々のそっと歩く足音が聞えてきて、その音の涼やかな響きにいつのまにか眠りへ誘い込まれてゆく。そんな意味なのでしょう。『古句を観る』(1984・岩波書店)所載。(松下育男)


August 0382008

 平均台降りて夏果てとも違ふ

                           中原道夫

ういえば先日朝日新聞に、清水哲男さんが日本の詩歌はスポーツをきちんと扱っていないと書いていました。なるほどと思っているところに、この句と出会いました。平均台というと、なぜか女子のスポーツです。中学生のときに、体育館の中で、跳び箱の順番を待ちながら、女子が平均台の上で苦労している姿をぼんやりと見ていたものです。夏であれば、体育館の開け放たれた扉の外には、空高く入道雲が盛り上がっていたことでしょう。この句が詠んでいるのは、平均台の上での動きそのものではなく、演技が終わって後のほっとした瞬間です。中空から足を地に下ろす、その時の心情が、閉じられようとする季節に重ねて詠われています。季語は「夏果て」、夏の終わるのを惜しむ気持ちです。ただ、句は夏果てとも違ふと、締めくくっています。この否定は、競技に燃焼しつくせなかったことを表しているのでしょうか。あるいは、季節に取り残した大切なものが別にあるということでしょうか。身体だけではなく、句の結末も、あやうげに中空に浮かんでいるようです。『角川俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


August 1082008

 物音は一個にひとつ秋はじめ

                           藤田湘子

読、小さなものたちが織り成す物語を思い浮かべました。人間たちが寝静まったあとで、コップはコップの音を、スプーンはスプーンの音を、急須は急須のちいさな音をたて始めます。語るためのものではなく、伝えるためのものでもなく、単にそのものであることがたてる「音」。もちろんこの「物音」は、人にもあてがわれていて、一人一人がその内側で、さまざまな鳴り方をしているのです。季語は「秋はじめ」、時期としては八月の頃をさします。まだまだ暑い日が続くけれども、季節は確実に秋へ傾いています。その傾きにふと聞こえてきたものを詠んだのが、この句です。秋にふさわしく、透明感に溢れる、清新な句になっています。気になるのは、「一個」と「ひとつ」という数詞。作者の中にひそむ孤独感を表現しているのでしょうか。いえそうではなく、この「一個」と「ひとつ」は、しっかりと秋の中に、自分があることの位置を定めているのです。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


August 1782008

 異国語もまじる空港秋暑し

                           後藤軒太郎

港の、高い天井の下にいると、なぜか自分がとるにたりない存在のように感じられてきます。通常は出会えない大きな空間に放り出されて、気後れがしてしまうのかもしれません。先日も見送りのために成田空港に行ってきましたが、家族にかける言葉も、いつもと違って、どこかうわっつらなものになってしまうのです。この句を読んで、あの日に感じたことをまざまざと思い出していました。「異国語」の「異」は、言葉だけではなく、心の中の違和感をも表しているようです。旅立つ人、見送る人、双方が日常の時間から切りはなされて緊張しているのです。耳元では、アジア系の、どこともわからない国の話し言葉が聞えてきます。「いってらっしゃい」と手を振って、一人きりになったあと、帰宅のために空港のバス停に向かいました。空港の建物から突き出ている大きな庇の向うには、依然として真夏の陽射しが強く照りつけていました。まさに本日あたりは、盆休みの行楽から多くの人が帰ってくるのでしょう。混雑する空港で、汗をぬぐいながら母国語にほっとして、暑い日常の日々に少しずつ戻って行くのです。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


August 2482008

 行き先の空に合わせる夏帽子

                           田坂妙子

語は夏帽子。帽子をかぶるという行為にはいろいろな理由があるのでしょうが、わたしの勤め先には、電話中も会議中も常に野球帽をかぶっている男性社員がいます。見た目を気にしてなのか、別に特別な理由があるのか、知る由もありません。ただ、この句の帽子には明確な理由があります。暑さや日ざしを防ぐためという実用の面から見るならば、帽子はたしかに夏がふさわしいようです。句の意味はわかりやすく、行く場所や時間によって、着てゆく服を選ぶように、行き先によって帽子を変えているのです。面白いのは対象が、人や場所ではなく、その上に広がる「空」であることです。空の色や光の加減によって、どの帽子にしようかと悩んでいます。なんとも美しく、きれいに透き通った悩みです。帽子を選んでいる部屋でさえ、中空に浮かんでいるような気分にさせられます。発想の中に「空」の一語が入り込んできただけで、これほどに読んでいて気持ちよくなるものかと、空の力にあらためて感心してしまいます。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2008年8月18日付)所載。(松下育男)


August 3182008

 擲てば瓦もかなし秋のこゑ

                           大島蓼太

ういう状況で、瓦を擲(なげう)つなどということがあるのでしょうか。今でこそ瓦を手に取る機会などめったにありませんが、作者は江戸期の俳人ですから、道端に、欠けた瓦がいくらでも落ちていたのでしょう。何かしらのうっぷんでも溜まっていたものと見えます。せめてからだをはげしく動かすことで、少しでも吐き出したい感情があったのです。でも、怒りにまかせて物を投げつけても、心がすっきりするわけではありません。瓦があたって響く音が、むしろ悲しみを増してしまったようです。硬くて軽い瓦は、ぶつかることによって、秋の空に高く悲しい音をたてています。石でも、木切れでもなく、瓦を詠みこんだことで、音の質が限定され、秋の空気とひとりでに結びついてきます。と、ここまで書いてきてふと思ったのですが、ここで投げているのは瓦ではなく、小石で、その小石が建物の屋根の上の瓦にあたって、秋の音を立てているのではないでしょうか。そのほうが句の視線が上のほうへ向かって、音も、よりすっきりと聞こえてきそうです。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


September 0792008

 悲しみに大き過ぎたる西瓜かな

                           犬山達四郎

西瓜が秋の季語だということは、先日知ったばかりです。季語と季節感のずれについては、この2年でだいぶ慣れてきましたが、それでも今回はさすがに違和感をもちました。本日の句、はじめから「悲しみ」が差し出されてきます。こんなふうに直接に感情を投げ出す句は、読み手としては読みの幅が狭められて、多少の戸惑を感じます。それでもこの句にひかれたのは、「悲しみ」と「西瓜」の組み合わせのためです。たしかに、「悲しみ」をなにかに喩えるのは、他の感情よりも容易なことかもしれません。それでもこの句の西瓜は、充分な説得力を持っています。大き過ぎる西瓜を渡されて、両手で抱えている自分を想像します。抱え切れない悲しみに、途方にくれている自分を想像します。さらにその大きさに、目の前の視界をふさがれた姿を想像します。悲しみにものが見えなくなっている自分を、想像します。どんなささいな悲しみも、当事者にとってはそれ相応の大きさを持つものなのでしょう。そして形は、この句がいうように、とらえどころのない球形なのかもしれません。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2008年9月1日付)所載。(松下育男)


September 1492008

 うらがえすやもう一つある秋刀魚の眼

                           五十嵐研三

い先日も、夕食のテーブルの上に、ちょこんと載っていました。勤めから帰って、思わず「サンマか」と、口から出てきました。特段珍しいものではありませんが、箸をつけて口に入れた途端、そのおいしさに素直に驚いてしまいました。掲句、「うらがえすや」とあるのですから、片面を食べ終わって箸で裏返したところを詠っています。眼がもう一つあると、わざわざ言っているからといって、秋刀魚の眼を意識しながら食べていたわけでもないのでしょう。それほどに威圧的に見つめられているわけでもなく、眼のある位置に眼があるのだと、あたりまえの感慨であったのかと思います。とはいうものの、秋刀魚を食べている時に、眼がもう片方にもあるのだとは、通常は考えないのですから、ここに文芸作品としての発見があるのは言うまでもありません。ただ、そんなことはことさらに書くことでもないのです。その、ことさらでないところが、秋刀魚という魚のもっている特長とちょうどよくつりあっており、この句は、日々の生活に添うように、不思議な安心感を与えてくれるのです。『合本俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


September 2192008

 秋の燈や連弾の腕交差せる

                           丹羽利一

しかに秋には音楽が似合います。澄み切った高い空へ抜けてゆくものとして、この季節に楽器の音を連想するのは自然なことです。句はしかし、日が落ちたあとのゆったりとした時間を詠んでいるようです。居間に置かれたピアノ。弾いているのは幼い姉妹でしょうか。必死になって練習をしているようです。ピアノの発表会に連弾はつきものです。第一部で小さな子が演奏し、第二部のお姉さんたちが出てくる前に、緊張を少し緩めるように、何曲かの連弾がプログラムに入っています。お母さんと娘であったり、ピアノの先生と生徒であったり、でも一番多いのは姉妹の連弾です。練習はどうしてもソロで弾く曲に時間が割かれ、連弾は後回しになってしまいます。それでも弾き始めてみれば、二人分の音の響きは驚くほどに力強く、一人では表現できないところにまで触れてゆくようです。「腕交差せる」という動きは、句を読むものにさまざまな連想をさせますが、ここは素直に読むことにします。腕の動きの柔らかさと、人の思いが、秋の楽器に静かに置かれているようです。よけいなことを意味づけずに、わたしたちはこの句に、じっと耳をすましていればよいのだと思うのです。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2008年9月15日付)所載。(松下育男)


September 2892008

 人下りしあとの座布団月の舟

                           今井つる女

布団から下りただけなのですから、数センチの高さのことなのでしょう。しかし、読んだときに思い浮かべたのは、もっと大きな、ゆったりとした動きでした。それはたぶん、「舟」という乗り物が、最後にでてくるからなのです。「人」「月」「舟」、放っておいてもロマンチックな空想へいってしまう言葉たちを、「座布団」が中心にどしりと座り込んで、現実とつなげているようです。それでも依然として句は、人をどこか未知の世界へ運んでくれています。人が座っていたあとの、なだらかなへこみが、舟のかたちをしていると詠っているのでしょうか。あるいはへこみから視線を上空へ向ければ、夜空に舟の形をした月が浮かんでいるということなのでしょうか。かぐや姫を持ち出すまでもなく、あるいは魔法の絨毯に言及するまでもなく、句には、どこか異世界のにおいのする素敵な光がみちています。ここから自由にどこへでも、わたしたちは漕ぎ出してもいいのだと。『合本俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


October 05102008

 夕焼けて玩具の切符は京都行き

                           西宮陽子

焼けは夏の季語ですが、個人的にはむしろ、秋が似合っている感じがするのです。それはたぶん、日の暮れ方の寂しさが、寒さへ向かう季節を連想させるからなのだと思います。一日を終えて、夕焼けを顔いっぱいに浴びながらその日の終点にたどり着く。この句を読んでいると、そんな時の動きが、空間の移動に自然に結びついてきます。とはいうものの、「玩具の切符」というのですから、この移動は遊びの中の出来事でしかありません。作者は、縁側に置きっぱなしにされた子供の遊び道具を見ているのでしょうか。夕焼けがきれいに映し出すその中に、薄っぺらな紙に電車の切符を模した玩具があります。見れば行き先は京都。かつての人生で、京都に行った日のことなども思い出していたのかもしれません。「切符」という言葉を見るだけで、ちょっとうれしくなるのはなぜなのでしょうか。この句を読んでいると、胸がどこかしら、弾んでくるのです。『俳句鑑賞450番勝負』(2007・文芸春秋)所載。(松下育男)


October 12102008

 人間が名付け親なり鰯雲

                           酒井せつ子

際に空を仰いで見るというよりも、この季節になると、鰯雲の「写真」をたびたび見ることがあります。ネットであったり、新聞であったり、雑誌であったり、まるで「鰯雲」という新商品がいっせいに発売されたかのように、空の写真が頻繁に日常の中に入り込んできます。たしかにそのすがたは美しく、目を雑誌に落としている瞬間も、遠くの空を見渡しているような心持になるものです。今日の句は、鰯雲の見た目を詠っているのではなく、句を作る発想の足元を、一歩後ろへ下げています。すでにあるものとしてそのものを詠うのではなく、そのものの成り立ちや起源に目を向けることは、俳句の世界では必ずしも珍しいことではありません。それでもこの句が私の目を惹いたのは、「ああそうか、ひとつひとつの名前の奥には、名づけるという人の動作が隠されているのだ」ということを、改めて思い出させてくれたからなのです。さらに、「名付け親」の一語が、妙に物語めいた雰囲気を醸しだしていて、読み手を空想の世界に導いてくれるのです。ただ漫然と空を見上げているだけでも、わたしたちが「名付け親」なのだと思えば、鰯雲との距離も、かすかに近づいてくるはずです。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2008年10月6日付)所載。(松下育男)


October 19102008

 秋夜遭ふ機関車につづく車輛なし

                           山口誓子

ふは、あまりよくないことに偶然にあうという意味です。ということは、作者は駅のホームにいたのではなく、どこか街中の引込み線か、金網越しの操車場に向かって歩いていたのでしょうか。夜中にうつむいて、とぼとぼと歩いていたら、突然目の前に機関車がわっと現れた、というのです。それも、本来はいくつもつながっているはずの車輛が、見えません。なにかに断ち切られたようにして、機関車だけがそこにぽつんと置かれてあります。読むものとしては、どうしても機関車を擬人化し、引き離された孤独を感じてしまいます。またその孤独は、操車場近くの暗い道を歩く作者の内面から出たものとして、読み取ろうとしてしまいます。しかし、多くの車両を引くために、日々力強く走る機関車を、家族のために働き続ける世のお父さんやお母さんの姿とダブらせてしまうのは、作者の意図するところではないのでしょう。読み返すほどに、なにげなく置かれた「つづく」の見事な一語が、身にせまる孤独感をさらに増しているように感じられます。『俳句の世界』(1995・講談社)所載。(松下育男)


October 26102008

 きちきちの発条ゆるび着地せり

                           益子 聡

ちきちばったなるものを知らなかったわたしは、この句を読んで、きつきつに押さえられていた発条(ぜんまい)から、手を放した瞬間を詠ったものだと思っていました。空中に飛び跳ねるようにして浮かんだゼンマイは、全身を伸びきったところで地上に落ちてきます。とはいうものの、ゼンマイに季節があるわけのものではなく、小澤實氏の「まるで発条じかけのように感じられる飛び方である」という解説を読んで、なるほどと納得したわけです。ネットで調べれば、きちきちばったとは「飛ぶときにキチキチという音を出す、しょうりょうばったの雄の別称」とあります。ちなみにしょうりょうばったのしょうりょうは、漢字では「精霊」と書くということ。なるほど精霊が宿ったゼンマイなのかと、解説を読んでもまだゼンマイを詠んだ句に思えてしまうから、弱ったものです。ゼンマイというものの、エネルギーを蓄えていたものが一瞬のうちに発散しておとなしくなってゆく様子から、ひとの一生の流れを思い始めてしまうのは、秋も深まってきたからなのでしょうか。金属製のゼンマイにも、幾重にも折り込まれた季節が、隠されているような気がしてきました。「読売俳壇」(「読売新聞」2008年10月20日付)所載。(松下育男)


November 02112008

 子蟷螂生まれながらの身の構え

                           松永昌子

が家には、今年で5歳になる犬(ヨークシャーテリア)がいます。むろん成犬ですが、からだはいつまでも小さく、散歩時に抱っこをして歩いていると、永遠に子供でいるような錯覚を覚えてしまいます。両腕で抱えて顔を寄せると、きまって顔をなめてきますが、そのたびに、なんと大きく口が裂けているものかと、自分の顔とは違った形に、あらためて驚きます。生き物というものは、ものみな種としての固有の形を持っており、そのことの驚きを感じればこそ、自分とは異なる生き物をいとおしく思う気持ちは、さらに増してきます。本日の句も、感じ方の根は同様のところにあるのではないでしょうか。子供の蟷螂(かまきり)は、まだ生まれたばかりなのに、すでに蟷螂の形をし、親と同じような姿で、鎌を空に上げています。その不可思議さを、あたらしい驚きとして、あるいは生きることの静かな悲しみとして、あらためて受け止める姿勢を、わたしは嫌いではありません。「読売俳壇」(「読売新聞」2008年10月27日付)所載。(松下育男)


November 09112008

 生きるの大好き冬のはじめが春に似て

                           池田澄子

人の入沢康夫がむかし、「表現の脱臼」という言葉を使っていました。思いのつながりが、普通とは違うほうへ持っていかれることを、意味しているのだと思います。もともと創作とはそのような要素を持ったものです。それでも脱臼の度合いが、特に気にかかる表現者がいます。わたしにとって俳句の世界では、池田澄子なのです。読んでいるとたびたび、「読み」の常識をはずされるのです。それもここちよくはずされるのです。「生きるの大好き」と、いきなり始める人なんて、ほかにはいません。特に「大好き」の「大」が、なかなか言えません。もちろん内容に反対する余地はなく、妙に幸せな気分になるから不思議です。生死(いきしに)について、どのように伝えようかと、古今の作家が思い悩んでいるときに、この作者はあっけらかんと、直接的なひとことで済ましてしまいます。では、なんでも直接的に対象に向かえばよいのかというと、それほどに単純なものではなく、ものを作るとは、なんと謎に満ちていることかと思うわけです。ともあれ、読者としては気持ちよく関節をはずされていれば、それでよいのかもしれません。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


November 16112008

 短日や一駅で窓暗くなり

                           波多野惇子

語は短日で、冬です。つり革につかまりながら、窓の外を見るともなく見ていたのでしょうか。前の駅で停車していたときには、夕暮れの駅舎の形や、遠くの山並みがはっきりと見えていたのに、つぎの駅についたときにはもう、とっぷりと暮れており、駅の灯りもまぶしげに点灯しています。むろん、駅と駅の間にはそれほどの距離があったわけではなく、だからこそ、日の暮れの早さに驚きもしているわけです。そういえば、わたしの働くオフィスには、前面に空を映した大きなガラス窓があり、最近は窓の外が、午後もすこし深まると、にわかに暗くなります。まさに「いきなり」という感じがするのです。冬の「時」は徐々に流れるのではなく、性急に奪い去られるものなのかもしれません。「一駅」という語は、その後ろに、駅と駅の間に流れ去って行く風景をそのまま想像させてくれる、うつくしい語です。句が横の向きへ走りさっていってしまうような、名残惜しさを感じます。うしなうことのさみしさを、読むことのできる季節になりました。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


November 23112008

 自動ドア閉ぢて寒雲また映す

                           松倉ゆずる

動的に動くものに対して、わたしはなかなか慣れることができません。自動改札では、いくども挟まれたことがありますし、自動的に出てくるはずの水道も、蛇口の下にどんなに手をかざしても、水が出てこないことがあります。本日の句に出てくる自動ドアも、ものによって開くタイミングが異なり、開ききるまえに前にすすんで、ぶつかってしまうことがあります。それはともかく、この句を読んで思い浮かべたのは、ファーストフード店の入り口でした。つめたく晴れ渡った空の下の、繁華街の一角、人通りの多い道に面した店の自動ドアは、次から次へ出入りする人がいて、なかなか閉じることがありません。それでもふっと、人の途切れる瞬間があって、やれやれと、ドアは閉じてゆきます。そのガラスドアに、空と、そこに浮かぶ冬の雲の姿がくっきりと浮かんでいるのが見えます。やっと戻ってきてくれた空と雲も、早晩、人の通過に奪い去られてしまうのです。次にやってくる客は、自動ドアの中の雲に足を踏み入れて、店に入ってゆくのです。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


November 30112008

 欲しきもの買ひて淋しき十二月

                           野見山ひふみ

聞に折り込まれたチラシに興味がなくなったら、欝(うつ)の前兆だと、かつて聞いたことがあります。特にスーパーの安売りのチラシに目を凝らしているうちは、生きることに貪欲な証拠であり、サラダ油の値段を比較することが、大げさに言うなら、生きることの勢いにつながっているのかもしれません。本日の句に詠まれている「欲しきもの」とは、しかし、もうすこし高価なものなのでしょうか。長年欲しいと思い続けていたものを、決意して買ったあとの、ふっと力の抜けた感覚が、見事に詠まれています。その店を通るたびに、いつかは買おうと思っていたのです。幾度も迷ったあげく、なにかのきっかけがあって、手に入れてはみたものの、心はなぜか満足感に満たされることがありません。むしろ、買いたいと思うものがなくなったことの淋しさのほうが、強く感じられるのです。12月といえば、クリスマスプレゼントや年末の買い物などがあり、また、多くの会社ではボーナスの支給される時期でもあり、「買いて淋しき」という言葉が、素直に結びつきます。街はクリスマスのイルミネーションで明るすぎるほどに輝き、そのまぶしさがいっそう、個人の影を色濃くしているようです。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


December 07122008

 入れものがない両手で受ける

                           尾崎放哉

由律俳句といっても、その表れ方は作品によってさまざまです。ですから読み手も作品ごとに、受け止め方を変えなければなりません。今日の句に限っていうなら、この短い作品には、もともと具体的なものや人、あるいは季語があったのに、なんらかの理由で取り払われてしまったのではないかと、感じさせるものがあります。読者としては、とうぜん失われたものがなにかということに思いを馳せることになります。作者はいったい何を受け取ろうとしていたのか。あるいはどんな姿勢をとっていたのか。手の形はどうしていたのか。しばらく考えをめぐらせたあとで、そんな詮索が意味のないことであると知るのです。結局、作者が詠みたかったのは、失われた「入れもの」自体であったと気づくのです。何ものも媒介するものがなく、この世をじかに受け止めていることの心細さ、といってしまっては解釈が単純すぎるでしょうか。五七五という熱い「入れもの」を手放した作者の思いを、両手でじかに受け止めさせられているのは、ほかならぬ読者なのかもしれません。『底のぬけた柄杓』(1964・新潮社)所載。(松下育男)


December 14122008

 スケートの紐むすぶ間もはやりつゝ

                           山口誓子

ころときめくものが、まだそれほどになかった時代。パソコンも、携帯電話も、ファミコンも存在しなかったわたしの中学生時代は、遊びの種類も限られていました。せいぜいボウリングや、クラスの仲間で行ったアイススケートは、それだけに特別な思い出として、よく覚えています。あるとき、クラスの男女20数人でスケート場に行って、無断で担任の先生の名を責任者として申し込み、団体割引で入ったことがありました。のちに先生に、そのことをこっぴどく叱られたことを、40年経った今でも思い出します。天井の高いスケート場は、場内に入ったとたんに、別の世界に迷いこんでしまったかのように明るく、多くの人の熱気に満ちていました。貧しい生活の、とくにこれといって華やかなことのない日常にとっては、かけがえのない晴れやかな体験でした。めったに履くことのないスケート靴は、不慣れなために、なかなかうまく紐が結べません。友は一人二人と先に靴をはき、細いエッジにふらつきながらも、すでに氷へ向かって歩いてゆきます。自分もはやくそうしたいというあせった思いの向く先は、自分の未来そのものだったのかもしれません。『合本俳句歳時記第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


December 21122008

 まつ白いセーターを着て逢ひにゆく

                           伊藤政美

が、個人的な思い出をまざまざと呼び覚ますことがあります。句に描かれた情景そのままではないにしても、どこかで結びついてしまうことが、時折あります。この句がわたしに思い出させたのは、若いころに恋人が着ていた白いコートでした。まだ決まった仲ではなかったけれども、それでもお互いがお互いを選ぼうとしていた頃に、有楽町そごうの前で待ち合わせたことがありました。緊張して待っていると、白いコートを着たその人が、むこうから歩いてきます。それまでに、その服を着ているのを見たことがなかったために、わたしはひどく驚くとともに、白という色に包まれた姿に、決定的に惹かれてしまいました。むろん、服の色が人生を決めたわけではありませんが、思いの速度をはやめたことは、間違いがありません。この句で詠まれているのは、コートよりもずっと身近にある「セーター」です。ただ、わざわざ「まつ白い」と宣言しているところや、「逢ふ」という文字にこめられているものを考えますと、状況はかなり似ているようです。それからわたしにもずいぶん月日が経ち、<共有のセーターに夫若返る>(中井陽子)や、<セーターにもぐり出られぬかもしれぬ>(池田澄子)(増俳2000年2月2日参照)という句を、わが身にあてて考えるような年齢に、いつのまにかなってしまいました。『角川 俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


December 28122008

 差引けば仕合はせ残る年の暮

                           沢木五十八

日の句を読んで、人というのはなんとも健気なものだと感じたのは、わたしだけでしょうか。それなりに幸せだったと、この一年の結果に納得したいと思っているわけです。もちろんだれに判定してもらうわけでもなく、問いかけているのも、やさしげに答えているのも、自分自身でしかありえません。経ってしまえば、一年はとても短く感じられはするものの、日々、さまざまなことに一生懸命に取り組んできた時間は、恐ろしいほどに長く、濃密なものです。つらかったことと、よかったと思えること、それを左右に積み上げて「はかり」で計れるわけのものではなく、所詮は来年へ向けて生きようとする勢いに役立てようとして、自分に問いかけているだけのことです。また、今は不幸せの部類に仕分けられた事柄も、将来大きな「仕合せ」に転じるかも知れず、一概に一年を「仕合せ」か「不幸せ」かで締めくくるのは、無理があるのかなとも、思います。ともかくも、人と比べてどうかではなく、作者はあくまでも自身の中での問題として考えているわけですから、詳しい事情はわかりませんが、「それでいいんじゃない」と、答えてあげたいと思うのです。『角川 俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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