田舎育ちのせいか、どうも新暦の七夕とお盆はピンと来ないのです。(哲




2008ソスN7ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0772008

 花火尽き背後に戻る背後霊

                           加藤静夫

える句だ。霊界にはからきし不案内だが、ネットで拾い読みしたところでは、背後霊は守護霊の子分みたいな位置づけらしい。どんな人にも当人を守る守護霊一体がついているのだが、守護霊一体だけでは本人の活動範囲全般にわたって効果的に守護することは難しいので、守護霊を補佐するような形で背後霊がついている。背後霊は二、三体いるのが普通で、たいていは先祖の誰かの霊なのだそうだ。この句では、それがあろうことか花火見物(手花火をやっているのかもしれないが、同じことだ)に来ている当人をさしおいて、背後から前面に出て見ほれてしまい、打ち上げが終わったところであわてて所定の位置である背後に戻って行ったと言うのである。背後霊は神ではないので、こんなこともやりかねない。花火に夢中になっている間に財布をすられるなんぞは、たいてい背後霊がこんなふうに持ち場を離れたせいなのだろう。しかし背後霊は先祖の誰かのことが多いのだから、あまり文句を言うわけにもいかないし……。作者は、ユーモア感覚を詠みこむのが巧みな人だ。こういう句を読むと、俳句にはもっともっと笑いの要素やセンスが取り込まれるべきだと思う。蛇足ながら、自分の背後霊を具体的に教えてくれるサイトがある。むろん先祖の名が出てくるのではないけれど、興味のある方はここからどうぞ。『中肉中背』(2008)所収。(清水哲男)


July 0672008

 庶務部より経理部へゆく油虫

                           境野大波

ぜ油虫の行き先が経理部なのかと、真っ先に引っかかったのは、わたしが長年経理部で働いているからなのでしょう。庶務部と経理部に、作者がどれほどの思い入れをしてこの句を詠んだのかはわかりません。ただ、経理で日々苦労を重ねてきたものとしては、つい余計なことを考えてしまいます。経理というのは(庶務も同様ですが)仕事の性質上、どんなに完璧に業務をこなしても、営業のようにはなかなか評価してもらえません。と、愚痴はここまで。本題に戻ります。油虫というと、どうしても家の台所を考えがちですが、仕事場にも確かに出ることはあるわけです。廊下の端をすばやくはしり、部屋の中へ消えて行く様子が、目に見えるようです。句の意味はそれだけのことですが、これも確かに季節を感じる心情に違いはありません。こんな瑣末な思いを積み重ねて、日々は成り立っているわけです。ところで、仁平勝さんはこの句の解説に、次のように書いています。「いつも庶務部と経理部をウロウロして、女子社員に軽口をたたいているような男がいる。」つまりそのような男のことも、油虫の意味には含まれているというのです。気がつきませんでした。ともかく男たるもの、せめて職場で「あぶらむし」呼ばわりされぬように、気をつけましょう。『日本の四季 旬の一句』(2002・講談社)所載。(松下育男)


July 0572008

 紫陽花の浅黄のまゝの月夜かな

                           鈴木花蓑

黄色は、古くは「黄色の浅きを言へるなり」(『玉勝間』)ということだが、浅葱色とも書いて、薄い藍色を表すようになった。今が盛りの紫陽花の、あの水よりも水の色である滴る青は、生花の色というのが不思議な気さえしてくる。梅雨の晴れ間、月の光に紫陽花の毬が浮かんでいる。赤みがかった夏の月からとどく光が、ぼんやりと湿った庭全体を映し出して、山梔子の白ほどではないけれど、その青が闇に沈まずにいるのだろう。紫陽花と一緒になんとなく雨を待っている、しっとりとした夜である。初めてこの句を「ホトトギス雑詠撰集・夏の部」で読んだ時は、あさぎ、とひらがなになっていて、頭の中で、浅葱、と思ったのだったが、こうして、浅黄、となっていると、黄と月が微妙に呼び合って、ふとまだ色づく前の白っぽい色を薄い黄色と詠んだのかとも思った。が、じっと思い浮かべると、やはり紫陽花らしい青ではないかと思うのだった。代表句とされる〈大いなる春日の翼垂れてあり〉の句も印象深い。「新日本大歳時記・夏」(2000・講談社)所載。(今井肖子)




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