July 132008
子が沈め母がしづめて浮人形
成田清子
ものとしては知っていても、そこにきちんとした名前があてがわれていることを知りませんでした。言葉があとからやってくる、という体験を、この歳になってもするものだなと、思いました。子供の頃に行水や風呂に入って浮かばせて遊んだおもちゃを、「浮人形」と言うのかと、あらためて日本語のひそやかさに感心しました。歳時記にもその記載がありますが、ビニール製のものよりも、やはり思い出すのはブリキ製の金魚でしょうか。毒々しいまでに濃く色づけられた目の大きな金魚の顔を、今でも覚えています。句は、夏の日盛りの下の行水ではなく、日が落ちてからの風呂場の光景のようです。一日の汗をぬぐって、母親と小さな子供が風呂に入っています。どんな場所も遊び場にしなければ気がすまない子供が、浮人形に興じています。けれど、目の前の水面に浮いているものがあれば、母親とて、手のひらで上から押して沈めてみたいという気持ちがおきます。子供の直接的な「沈め」という動作を、わざわざひらがなの「しづめ」と書き換えているところに、母親のおもむろな動きを感じます。浮き上がろうとするおもちゃの力を、心地よく感じながら、同じ動作を子供と幾度も繰り返します。飛び上がるように浮いてくるおもちゃの勢いのよい姿は、それだけでその日の鬱屈を、いくらかは鎮めてくれているようです。『角川 俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)
『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます
|