母校(立川高)を応援に行く予定を、あまりの暑さに断念。在宅祝杯でした。(哲




2008ソスN7ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1372008

 子が沈め母がしづめて浮人形

                           成田清子

のとしては知っていても、そこにきちんとした名前があてがわれていることを知りませんでした。言葉があとからやってくる、という体験を、この歳になってもするものだなと、思いました。子供の頃に行水や風呂に入って浮かばせて遊んだおもちゃを、「浮人形」と言うのかと、あらためて日本語のひそやかさに感心しました。歳時記にもその記載がありますが、ビニール製のものよりも、やはり思い出すのはブリキ製の金魚でしょうか。毒々しいまでに濃く色づけられた目の大きな金魚の顔を、今でも覚えています。句は、夏の日盛りの下の行水ではなく、日が落ちてからの風呂場の光景のようです。一日の汗をぬぐって、母親と小さな子供が風呂に入っています。どんな場所も遊び場にしなければ気がすまない子供が、浮人形に興じています。けれど、目の前の水面に浮いているものがあれば、母親とて、手のひらで上から押して沈めてみたいという気持ちがおきます。子供の直接的な「沈め」という動作を、わざわざひらがなの「しづめ」と書き換えているところに、母親のおもむろな動きを感じます。浮き上がろうとするおもちゃの力を、心地よく感じながら、同じ動作を子供と幾度も繰り返します。飛び上がるように浮いてくるおもちゃの勢いのよい姿は、それだけでその日の鬱屈を、いくらかは鎮めてくれているようです。『角川 俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


July 1272008

 干梅や家居にもある影法師

                           山本洋子

供の頃に住んでいた家には梅の木があり、毎年たくさんの実をつけた。縁側にずらりと梅の実が干されていたのは梅雨が明けてから、もうすぐ夏休みという、一年で一番わくわくする時期だったように思う。この句の梅は、外に筵を敷いて干されているのだろう。小さな梅の実にはひとつずつ、濃い影ができている。影は、庭の木に石に、ひとつずつじっと寄りそい、黒揚羽と一緒にやぶからしのあたりをひらひらしている。干している梅の実がなんとなく気にかかって、日差しの届いている縁側あたりまで出てくると、それまでひんやりとした座敷の薄暗がりの中でじっとしていた影法師が姿を見せる。影法師という表現は、人の影にだけ使われるという。寓話の世界では、二重人格を象徴するものとして描かれたりもするが、じっと佇んで影法師を見ていると、どこにでもついてくる自らの形を忠実に映している黒々としたそれが、自分では気がついていない心の奥底の何かのようにも思えてくる。『木の花』(1987)所収。(今井肖子)


July 1172008

 鳥逐うてかける馬ある夏野かな

                           松尾いはほ

レビで動物の番組が見られなくなった。動物の悲惨は見るに耐えないが、最近は、動物の生態を撮った映像もだめ。こんな穴の中の住処までカメラを入れなくてもとか、この芸を覚えるのはかなりしんどかったろうな、などと考えるともうだめだ。これはやはり老化と関係するのだろう。舞台に子役が上がるとそれだけて泣いてしまうお婆ちゃんと同じだ。脚本家はここで泣かせようと意図して場面をつくる。泣けよ、泣けよ、ほうら、泣いた、やっぱりね。というふうに。それに嵌るのが、ボタンを押されたら涙が出るロボットみたいで悔しいから、定番の罠にかからないようにする。ここで泣かせようとするだろうと先手を打つわけである。俳句もほうら美しいでしょとか、見事に取り合わせが決まったでしょと主張する作品には魅力がない。罠に嵌められた感じがするんだな。意図された感動つまり従来の情緒を嫌って「もの」そのものを求めていくと、いつか鋏や爪切りがそこに在ることの哀しさや喜びを詠えるようになるのかななんて考える。逐うてはおうて。鳥を追って駆ける馬には嘘がない。それを写し取る作者の意図も抑制されている。講談社版『日本大歳時記』(1981)所載。(今井 聖)




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