July 212008
暑うしてありありものの見ゆる日ぞ
今井 勲
作者は私と同年。昨夏、肝臓ガンで亡くなられたという。句は亡くなる前年の作で、何度も入退院を繰り返されていたが、この頃は比較的お元気だったようだ。が、やはりこの冴え方からすると、病者の句と言うべきか。暑くてたまらない日だと、たいていの人は、むろん私も思考が止まらないまでも、どこかで停止状態に近くなる。要するに、ぼおっとなってしまう。でも作者は逆に、頭が冴えきってきたと言うのである。「見ゆる日ぞ」とあるから、暑い日にはいつも明晰になるというわけではなく、どういうわけかこの日に限ってそうなのだった。ああ、そうか。そういうことだったのか。と、恐ろしいほどにいろいろなことが一挙にわかってきた。死の直前の句に「存命の髪膚つめたき真夏空」があり、これまた真夏のなかの冷徹なまでの物言いが凄い。「髪膚(はっぷ)」は髪の毛と皮膚のこと。人は自分に正直になればなるほど、頭でものごとを理解するのではなく、まずは身体やその条件を通じてそれを果たすのではあるまいか。病者の句と言ったのはその意味においてだが、この透徹した眼力を獲得したときに、人は死に行く定めであるのだとすれば、人生というものはあまりに哀しすぎる。しかし、たぶんこれがリアルな筋道なのだろうと、私にはわかるような気がしてきた。こういうことは、誰にでも起きる。遺句集『天樂』(2008・非売)所収。(清水哲男)
November 102008
寺寒し肉片のごと時計垂れ
今井 勲
客もほとんど帰ってしまった通夜の席ではなかろうか。冬の寺はだいたいが寒いところだが、夜が更けてくるにつれ、しんしんと冷え込んでくる。私にも経験があって、火の気の無い冬の寺で夜明かしするには、とりあえずアルコールでも補給しないことには辛抱しきれないのであった。線香の煙を絶やさないように気配りすることくらいしかやることもなく、所在なくあたりを見回していた作者の目にとまったのは、いささか大きめな掛け時計であった。何もかもが動きを止めているようなしんとした堂内で、唯一動いている時計。それが作者には、肉片のように生々しく思えたのだろう。ここで私などは、どうしてもダリの描いた柔らかい時計、溶ける時計を思い出してしまうが、作者にも無意識にせよ、ダリの絵の情景と交叉するところがあったに相違ない。寺の調度類は総じて固く見えるから、ひとり動いている時計がそれだけ柔らかく見えたとしても不思議ではないと思う。もう少し突っ込んで考えてみれば、死者の棺を前にして、故人との思い出深い時間が直線的な時系列的にではなく、だらりと垂れた時計のように行きつ戻りつ歪んで思えてきたということなのかもしれない。いずれにしても、読後しばらくは、それこそ「肉片のごと」生々しく心に引っかかって離れない句ではある。遺句集『天樂』(2008・非売)所収。(清水哲男)
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