「海の日」ったって海水浴の日じゃありません(笑)。念のため。(哲




2008ソスN7ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2172008

 暑うしてありありものの見ゆる日ぞ

                           今井 勲

者は私と同年。昨夏、肝臓ガンで亡くなられたという。句は亡くなる前年の作で、何度も入退院を繰り返されていたが、この頃は比較的お元気だったようだ。が、やはりこの冴え方からすると、病者の句と言うべきか。暑くてたまらない日だと、たいていの人は、むろん私も思考が止まらないまでも、どこかで停止状態に近くなる。要するに、ぼおっとなってしまう。でも作者は逆に、頭が冴えきってきたと言うのである。「見ゆる日ぞ」とあるから、暑い日にはいつも明晰になるというわけではなく、どういうわけかこの日に限ってそうなのだった。ああ、そうか。そういうことだったのか。と、恐ろしいほどにいろいろなことが一挙にわかってきた。死の直前の句に「存命の髪膚つめたき真夏空」があり、これまた真夏のなかの冷徹なまでの物言いが凄い。「髪膚(はっぷ)」は髪の毛と皮膚のこと。人は自分に正直になればなるほど、頭でものごとを理解するのではなく、まずは身体やその条件を通じてそれを果たすのではあるまいか。病者の句と言ったのはその意味においてだが、この透徹した眼力を獲得したときに、人は死に行く定めであるのだとすれば、人生というものはあまりに哀しすぎる。しかし、たぶんこれがリアルな筋道なのだろうと、私にはわかるような気がしてきた。こういうことは、誰にでも起きる。遺句集『天樂』(2008・非売)所収。(清水哲男)


July 2072008

 胸に手を入れて農婦は汗ぬぐふ

                           佐藤靖美

つて読んだ本の中に、こんなことが書いてありました。「「ゾウが汗だく」とか「ライオンが額に汗して……」なんて光景は、ついぞお目にかかったことがない。」そういえばそんなものかと思い、続きを読むと、なぜ人間以外の動物が、汗だくにならないかという理由が書かれていました。いわく、「決定的な答えはひとつ。動物たちは、汗をかいてまで体温を下げなくてはならないようなことを、しないだけだ。」(加藤由子著『象の鼻はなぜ長い』より)。さて、本日の句を読むまでもなく、人間は汗をかいてまで体温を下げなくてはならないようなことを、しているわけです。無理をしなければ生きていけないのが人間、ということなのでしょうか。言うまでもなく、句中の農婦が汗をかいたのには、堂々たる理由があります。農作業中に「胸に手を入れて」汗を拭くという行為は、その動きの切実さゆえに、読者を感動させるものを持っています。まっとうな行為としての重みと尊厳を、しっかりと備えているからなのでしょう。みっともないとか、見た目が悪いとかの判断よりもずっと奥深くにある、人間の根源的な営みを、句は正面から詠もうとしています。『角川 俳句大歳時記 夏』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


July 1972008

 祗園会に羽化する少女まぎれゆく

                           津川絵理子

女が羽化する、という表現は特に目新しいものではないのかもしれないが、少女は羽化する生きものである。さなぎの沈黙の中で、日々大きく変わってゆく少女とは、十代半ば、中学生位だろうか。まだランドセルが似合いそうな新入生が、中学卒業の頃には確かに、明日から高校生、という面差しとなる。それから自分自身を、一人の人間としてだけでなく、一人の女として意識せざるを得なくなり、少女の羽化が始まる。それは、さなぎが蝶になる、といったイメージばかりではなく、たとえば鏡の中の自分の顔をあらためて見ながら、小さくため息をついたことなど思い出される。生まれながら無意識のうちに、自分が男であるという自覚を持っている男性に対して、女性は自分が女であることを、ある時ふと自覚する。そんな瞬間が来るか来ないかといった頃合の少女は、軽やかな下駄の音を残して、作者の横をすりぬけ、祭の賑わいの中へまぎれ消えてゆく。祇園会は、七月一日からさまざまな行事が約一ヶ月続き、十七日の山鉾巡行がクライマックスといわれる勇壮な祭。いつにも増して観光客が多い京都の夏、そこに生まれ育って女になってゆく少女達である。『和音』(2006)所収。(今井肖子)




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