隅田川の花火大会も終わり、心なしか日没も早くなり…。猛暑にも秋の気配。(哲




2008ソスN7ソスソス27ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2772008

 涼しさや寝てから通る町の音

                           使 帆

語は涼し、夏です。夏そのものはむろん涼しくはありませんが、暑いからこそ感じる涼しさの価値、ということなのでしょうか。この句では、風や水そのものではなくて、町の音が涼しいと詠んでいます。マンション暮らしの長いわたしなどには、到底たどり着くことの出来ないひそやかな感覚です。たしかにマンションの厚い壁に囲まれて暮らす日々には、町の雑多な音は届きません。思い出せば子供の頃には、銭湯へ行く道すがら、開けっ放しの窓から友人の家の団欒がすぐ目の前に見えたものでした。一家で見ているテレビの番組さえ、すだれ越しに見えていた記憶があります。当時は家の中と外の区切りはかなり曖昧で、眠っている枕元すぐのところで、町の音はじかに聞えたものです。この句を読んだときに印象深かったのは、書かれている意味でも、また音の響きでもなく、並んだ文字のたたずまいの美しさでした。実際、柴田宵曲氏の解説を読むまでは、省略された主語がどこにかかっているのかもはっきりとせず、句の意味を正確につかまえることができませんでした。暑い夏の一日を終え、やっと体を横たえて眠ろうとしています。その耳元に、人々のそっと歩く足音が聞えてきて、その音の涼やかな響きにいつのまにか眠りへ誘い込まれてゆく。そんな意味なのでしょう。『古句を観る』(1984・岩波書店)所載。(松下育男)


July 2672008

 みちのくの蛍見し夜の深眠り

                           大木さつき

月も終わりに近づき、蛍の季節には少し遅いかもしれないけれど。子供の頃に住んでいた官舎の前の小さな川は、今思えばそれほど清流であったとも思えないのだが、毎夏当然のように蛍が飛んでいた。仕事帰りのほろ酔いの父が、橋の上で捕まえてきた蛍の、ほの白い光が指の隙間から洩れるのを、じっと見ていた記憶がある。ゆっくり点滅していたのであれは源氏蛍だったのか、この作者がみちのくの旅で出会った蛍は、星がまたたくように光る平家蛍かもしれない。昼間は青田風の渡る水田に、頃合いを見計らって蛍を見に。蛍の闇につつまれて小一時間も過ごして宿に戻り、どっと疲れて眠ってしまう。蛍そのものを詠んでいるわけではないけれど、深眠り、という言葉の奥に、果てしなく明滅する蛍が見えて来て、読むものそれぞれの遠い夏を、夢のように思い出させる。〈啄木のふるさと過ぎぬ花煙草〉という句もあり、このみちのくは岩手なのかとも。『一握の砂』に〈蛍狩り川にゆかむといふ我を山路にさそふ人にてありき〉という歌があるといい、これもまた、蛍にまつわる淡い思い出。『遙かな日々』(2007)所収。(今井肖子)


July 2572008

 尾をふりて首のせあへり冷し豚 

                           三条羽村

し豚。一瞬目を疑った。中華料理の話ではない。牛馬冷すの季題の本意は、農耕に用いた牛馬の泥や汗を落し疲労を回復させる目的で海や川に浸けてやること。田舎では以前はよく見られた。だから農耕に具する家畜以外を「冷す」風景は見られてもそれを季題として用いる発想はいわゆる伝統俳句にはなかった、と思われた。ところがどっこい。この句、虚子編の歳時記の「馬冷す」の項目に例句として載っている。「ホトトギス」というところは、「写生」を標榜しながら「もの」のリアルよりも季題の本意を第一義にしていると固く信じていた僕はたまげてしまった。「もの」のリアル。そのときその瞬間の「私」の五感で掴んだものを最優先するように教わってきた僕から見てもこんなリアルな作品はめったにない。季題の本意をかなぐり捨てても、得られるもっと大きなものがあるというのはこういう句について言えること。広い豚舎の中か、放牧の豚の群れにホースで水をかけてやる。放水の下で群れるこれらの豚の愛らしさはどうだ。現実をそのまま写すということの簡単さと困難さ、そしてその方法に適合する俳句形式の間尺ということをつくづく考えさせられた。作者と編者に脱帽である。虚子編『新歳時記・増訂版』(1951・三省堂)所載。(今井 聖)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます