世間はすっかり夏休みモードに。電車の混み具合がいつもと違います。(哲




2008ソスN8ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0882008

 ビール抜き受け止めたりな船の人

                           相島虚吼

誌「ホトトギス」の俳人のいろいろな意味で問題提起の作品。この句、ビールそのものを言わずして船上のビールを思わしめている点は熟練の技を感じさせる。ところで、ビール抜きなどというものはない。あるのは栓抜きである。ところが栓抜きというと季題にならないから無理をして造語を作ってビール抜きという。ではそんなに無理をしてビール抜きといえば季題になるかというとこれは微妙なところでしょう。ビール抜きというものが存在するとしても、ビールといわないかぎりそこにビールは存在しない。ビール抜きがあるのだからビールは言わずもがなということになるのなら、季題は無くとも季節感さえあればいいということになる。「ホトトギス」はそんなことは認めていないでしょう。それとも字面でビールという字があれば季題になるというのであれば鰯の缶詰でも桜の紋章でも季題になる。それは違うでしょう。「写生」というのは季題諷詠なのか、「もの」そのものを凝視するのか、はたまた受け止めた「人」を活写するのか。さあ、どっちなんだと「ビール抜き」が言っている。『新歳時記増訂版虚子編』(1951)所載。(今井 聖)


August 0782008

 膝に乗る黒猫の愚図夜の秋

                           坪内稔典

になると昼の暑さが遠のき一足先に秋が到着したように涼やかな夜風が吹き抜けてゆく。今日から暦のうえでは「秋」に移行するわけだけど、とりわけこの頃の季感にこの季語が似つかわしく思われる。日中は毛だらけの猫がそばに寄ってくるだけでも疎ましいが、そよそよと吹く風に汗もひき、ふと膝に寂しさを覚えるとき、座り込んでくる猫の重みもうれしい。俊敏な動きの猫の名が「愚図」というのも面白いが、「黒」と「愚」の字の並びにたっぷりとした夜の闇が猫に化身したごとき不思議が感じられる。出だしの「膝」と結語「秋」のイ音がくぐもった音を連続させた全体の調子を引き締めている。「ほかのあらゆる類似の言葉を拒んでその特別に選ばれた言葉どおりくりかえし口誦されることを望んでいる」とは高柳重信の言葉だが、リズミカルな口誦性とイメージの豊かさはこの作者のどの句にも共通する特色だろう。『京の季語・夏』(1998・光村推古書院)所載。(三宅やよい)


August 0682008

 蟇ひたすら月に迫りけり

                           宮澤賢治

るからにグロテスクで、人にはあまり好かれない蟇(ひきがへる)の動作は鈍重で、叫んでも小石を投げつけてもなかなか動かない。暗い藪のなかで出くわし、ハッとして思わず跳びすさった経験がある。その蟇が地べたにバタリとへばりついているのではなく、「月に迫りけり」と大きなパースペクティブでとらえたところが、いかにも賢治らしい。ピョンピョンと跳んで月に迫るわけではない。バタリ・・・バタリ・・・とゆっくり重々しく迫って行くのだろう。「ひたすら」といっても、ゆっくりとした前進であるにちがいない。蟇には日の暮れる頃から活動する習性があるという。鈍重な蟇と明るい月の取り合せが印象的である。もしかしてこの蟇は、銀河鉄道でロマンチックに運ばれて行くのだろうか。そんな滑稽な図を考えてみたくもなる。賢治に「春―水星少女歌劇団一行」という詩があり、「向ふの小さな泥洲では、ぼうぼうと立つ白い湯気のなかを、蟇がつるんで這つてゐます」という、蟇の登場で終わっている。賢治は少年期から青年期にかけて、さかんに短歌を作ったけれども、俳句には「たそがれてなまめく菊のけはひかな」という作品もある。彼の俳句については触れられることが殆どなく、年譜に「村上鬼城『鬼城句集』が出版され、・・・・愛好して後半作句の手引きとし揮毫の練習に用いた」(大正六年・二十一歳)と記されている程度である。蟇といえば、中村草田男の代表句の一つ「蟾蜍(ひきがへる)長子家去る由もなし」を思い出す。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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