August 092008
八月の月光部屋に原爆忌
大井雅人
原爆忌は夏季だが、立秋を間に挟むので、広島忌(夏)長崎忌(秋)と区別する場合もある・・・というのを聞きながら、何をのん気なことを言っているんだろう、と思った記憶がある。もちろんそれは、何ら異論を挟むような問題ではないのだけれど。原爆投下、終戦、玉音放送から連想されるのはやりきれない夏だと母は言う、だから夾竹桃の花は嫌いだと。昭和二十年八月六日、愛媛県今治市に疎開していた母は、その瞬間戸外にいて、一瞬の閃光につつまれた。その光の記憶は、六十三年経った現在も鮮明であるという。その時十三歳であったと思われる作者に、どんな記憶が残っているのかはわからないけれど、輪郭が際立ち始めた八月の月の光と、原爆の、想像を絶する強烈な光は、かけ離れているようでどこか呼応する。八月という言葉の持つ重さが、その二つを結びつけているのだろうか。『新日本大歳時記』(2000・講談社)所載。(今井肖子)
August 092012
フクシマで良いのか原爆忌が近い
山崎十生
昭和二十年八月六日広島、八月九日長崎へ原子爆弾が投下された。広島市をヒロシマと表記するのは被爆都市としての広島を表すときで、原水爆禁止運動の中で使われたのが最初のようだ。広島には原爆投下で亡くなった親族、被爆手帳を携えて生きた義父の墓がある。余り多くを語らなかった義父にとって原爆の日が来るたびあの日の惨状を思い出すことは辛かったと思う。福島第一原子力発電所の事故から一年余り、早々と安全宣言をだし大飯原子力発電所の再稼働を決めた国の施策に疑問を感じる。もちろんアメリカ軍によって投下された原爆と今回の原子力の事故を同列に扱うわけにはいかないが、「今回の事故による放射能の直接的影響で亡くなった人は一人もいない」と言ってのける電力会社は原子力という怪物を管理している自覚があるのか。あまりにも無神経な発言に怒りを覚える。掲句では「(ヒロシマやナガサキ同様に)フクシマという表記を使っていいのか」と迷いつつ原爆忌を迎える作者の心の動きが書き留められている。被曝地域の声をなおざりに原子力政策を進める国、じゃあ自分は「フクシマ」とどう向き合うのか、作者のとまどいはそのまま自分に返ってくる。『悠々自適入門』(2012)所収。(三宅やよい)
August 072014
原爆忌テレビ終れば終るなり
柳沼新次
毎年八月六日になればテレビで広島での原爆死没者慰霊式の様子が放映される。献花の後に8時15分原爆投下時の黙祷、平和宣言などが続く。原爆投下直後の街の凄まじさについて被爆者である義父はあまり語らなかった。瀕死の妻を抱えて命からがら脱出した土地で傷を養い、ゆっくり回復していったようだ。当時新型爆弾と呼ばれ、放射能の影響がよくわかっていない中で様々な憶測や流言飛語が乱れ飛んだだろう。そのさなかに避難してきた被爆者を介護した広島周辺の人々と、爆心地へ救助に入った人たちの勇気を合わせて思う。慰霊式の中継が終われば普段の番組が始まり、見る側の私たちも日常に戻ってしまう。「終れば終るなり」と強い断定で言い切ったことで、そのあとの余白にあの日起こったことが今も持続していることを強く感じさせる。八月九日には長崎原爆犠牲者慰霊の日を迎える。無慈悲に人を破壊するのも、傷ついた人を助けるのも人間である事実を忘れたくはない。『無事』(2013)所収。(三宅やよい)
August 092014
原爆忌乾けば棘を持つタオル
横山房子
連日の猛暑に冬籠りならぬ夏籠りのような日々を送っているうち暦の上では秋が立ち、そしてこの日が巡って来る。一度だけでもありえないのになぜ二度も、という思いと共に迎える八月九日。八月六日を疎開先の松山で目撃した母は、その時咲いていた夾竹桃の花が今でも嫌いだと言うが、八月の暑さと共にその記憶が体にしみついているのだろう。この句の作者は小倉在住であったという。炎天下に干して乾ききったタオルを取り入れようとつかんだ時、ごわっと鈍い痛みにも似た感触を覚える。本来はやわらかいタオルに、棘、を感じた時その感触は、心の奥底のやりきれない悲しみや怒りを呼び起こす。夫の横山白虹には<原爆の地に直立のアマリリス >がある。『新日本大歳時記 夏』(2000・講談社)所載。(今井肖子)
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