土日には昼寝ができるのでありがたい。会社でのうたた寝だけではね。(哲




2008ソスN8ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1082008

 物音は一個にひとつ秋はじめ

                           藤田湘子

読、小さなものたちが織り成す物語を思い浮かべました。人間たちが寝静まったあとで、コップはコップの音を、スプーンはスプーンの音を、急須は急須のちいさな音をたて始めます。語るためのものではなく、伝えるためのものでもなく、単にそのものであることがたてる「音」。もちろんこの「物音」は、人にもあてがわれていて、一人一人がその内側で、さまざまな鳴り方をしているのです。季語は「秋はじめ」、時期としては八月の頃をさします。まだまだ暑い日が続くけれども、季節は確実に秋へ傾いています。その傾きにふと聞こえてきたものを詠んだのが、この句です。秋にふさわしく、透明感に溢れる、清新な句になっています。気になるのは、「一個」と「ひとつ」という数詞。作者の中にひそむ孤独感を表現しているのでしょうか。いえそうではなく、この「一個」と「ひとつ」は、しっかりと秋の中に、自分があることの位置を定めているのです。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


August 0982008

 八月の月光部屋に原爆忌

                           大井雅人

爆忌は夏季だが、立秋を間に挟むので、広島忌(夏)長崎忌(秋)と区別する場合もある・・・というのを聞きながら、何をのん気なことを言っているんだろう、と思った記憶がある。もちろんそれは、何ら異論を挟むような問題ではないのだけれど。原爆投下、終戦、玉音放送から連想されるのはやりきれない夏だと母は言う、だから夾竹桃の花は嫌いだと。昭和二十年八月六日、愛媛県今治市に疎開していた母は、その瞬間戸外にいて、一瞬の閃光につつまれた。その光の記憶は、六十三年経った現在も鮮明であるという。その時十三歳であったと思われる作者に、どんな記憶が残っているのかはわからないけれど、輪郭が際立ち始めた八月の月の光と、原爆の、想像を絶する強烈な光は、かけ離れているようでどこか呼応する。八月という言葉の持つ重さが、その二つを結びつけているのだろうか。『新日本大歳時記』(2000・講談社)所載。(今井肖子)


August 0882008

 ビール抜き受け止めたりな船の人

                           相島虚吼

誌「ホトトギス」の俳人のいろいろな意味で問題提起の作品。この句、ビールそのものを言わずして船上のビールを思わしめている点は熟練の技を感じさせる。ところで、ビール抜きなどというものはない。あるのは栓抜きである。ところが栓抜きというと季題にならないから無理をして造語を作ってビール抜きという。ではそんなに無理をしてビール抜きといえば季題になるかというとこれは微妙なところでしょう。ビール抜きというものが存在するとしても、ビールといわないかぎりそこにビールは存在しない。ビール抜きがあるのだからビールは言わずもがなということになるのなら、季題は無くとも季節感さえあればいいということになる。「ホトトギス」はそんなことは認めていないでしょう。それとも字面でビールという字があれば季題になるというのであれば鰯の缶詰でも桜の紋章でも季題になる。それは違うでしょう。「写生」というのは季題諷詠なのか、「もの」そのものを凝視するのか、はたまた受け止めた「人」を活写するのか。さあ、どっちなんだと「ビール抜き」が言っている。『新歳時記増訂版虚子編』(1951)所載。(今井 聖)




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