だんだん夜明けが遅くなってきましたね。夏は過ぎ去っていきます。(哲




2008ソスN8ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 1782008

 異国語もまじる空港秋暑し

                           後藤軒太郎

港の、高い天井の下にいると、なぜか自分がとるにたりない存在のように感じられてきます。通常は出会えない大きな空間に放り出されて、気後れがしてしまうのかもしれません。先日も見送りのために成田空港に行ってきましたが、家族にかける言葉も、いつもと違って、どこかうわっつらなものになってしまうのです。この句を読んで、あの日に感じたことをまざまざと思い出していました。「異国語」の「異」は、言葉だけではなく、心の中の違和感をも表しているようです。旅立つ人、見送る人、双方が日常の時間から切りはなされて緊張しているのです。耳元では、アジア系の、どこともわからない国の話し言葉が聞えてきます。「いってらっしゃい」と手を振って、一人きりになったあと、帰宅のために空港のバス停に向かいました。空港の建物から突き出ている大きな庇の向うには、依然として真夏の陽射しが強く照りつけていました。まさに本日あたりは、盆休みの行楽から多くの人が帰ってくるのでしょう。混雑する空港で、汗をぬぐいながら母国語にほっとして、暑い日常の日々に少しずつ戻って行くのです。『角川俳句大歳時記 秋』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


August 1682008

 ぼろぼろな花野に雨の降りつづけ 

                           草間時彦

野というと、子供の頃夏休みの何日かを過ごした山中湖を思い出す。早朝、赤富士を見ようと眠い目をこすりながら窓を開けると、高原の朝の匂いが目の前に広がる花野から飛び込んで来た。それは草と土と朝露の匂いで、今でも夕立の後などに、それに近い匂いがすると懐かしい心持ちになる。花野は、自然に草花が群生したものなので、夏の間は草いきれに満ちているだろう。そこに少しずつ、秋の七草を始め、吾亦紅や野菊などが咲き、草色の中に、白、黄色、赤、紫と色が散らばって花野となってゆく。この句の花野は、那須野の広々とした花野であるという。そこに、ただただ雨が降っている。雨は、草の匂いとこまごまとした花の色を濃くしながら降り続き、止む気配もない。降りつづけ、の已然止めが、そんな高原の蕭々とした様を思わせ、ぼろぼろな、という措辞からするともう終わりかけている花野かもしれないが、その語感とは逆に逞しい千草をも感じさせる。同じ花野で〈花野より虻来る朝の目玉焼〉とあり、いずれもイメージに囚われない作者自身の花野である。『淡酒』(1971)所収。(今井肖子)


August 1582008

 花火見る暗き二階を見て通る

                           池内たけし

火見るでは切れない。花火を見ている顔が並ぶ暗い二階を見て通るという内容。顔は見えないかもしれない。顔が見えなくても花火を見ているであろうことは声でわかるのかもしれない。もし「見る」で切れるとするならば、作者は花火と暗い二階を同時に(或いは連続して)見ていることになる。同時に見るのは無理だし、連続して見てもそこに詩情は感じられない。これはやはり花火を見ないで二階を見ているのだ。花火を見ているのは二階の人。花火を見ずとも音は聞こえる。花火の炸裂音の中で作者は暗い二階を見上げる。花火に浮き立つ世の人々を冷笑的に見ているのか。花火賛歌ではない内面的な角度がある。何か人目をひくものの前でそこに見入る人を見ている人が必ずいる。見る側に立つのはいいが、見られる側に立つのはなんとなく気持ちが悪い。見ている側に優越的な気持ちを持たれているようでもあるし。もし逆の立場で、二階で花火を見ている自分が下から見られていると感じたら、いっそう楽しそうに花火見物の自分をみせつける奴と、どこ見てんだよと睨み返す奴がいるんだろうな。僕はやっぱり後者だな。楽しんでる顔を冷静に見られるのは嫌だな。『新歳時記増訂版虚子編』(1951)所載。(今井 聖)




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