2008N9句

September 0192008

 一塁後方十三米芋嵐

                           今坂柳二

きごろの「朝日新聞」に「詩歌はスポーツに冷淡だ」という趣旨のコラムを書いたら、揚句の作者が四冊の句集を送ってくださった。全ての句の素材は、作者が打ち込んできたマラソンとソフトボールに関連している。冷淡どころか、実に熱いスポーツ句集だ。しかも作者がはじめてソフトボールの球を握ったのは五十五歳のときだったというから、おどろかされる。やりたくても、家業の農業が忙しく、その年齢まで待たねばならなかったのである。七十八歳のいまも現役だ。さて、揚句。いかにソフトといえども、一塁後方が十三米とはあまりにも狭すぎる。ソフトのホームベースと投手間の正式な距離が14.02米と知れば、なおさらその狭さがおわかりだろう。しかも狭いライトのすぐ後ろは里芋畑だ。風の強い日で、芋の大きい葉がばたばたと煽られている。句からだけでは作者の立ち位置はわからないけれど、その芋畑は農業者の作者には絶対の聖域である。そのなかにボールが転々としても、興奮して飛び込み踏み荒らすことは絶対に許されない。打者ならば間違ってそちらに深く飛んでほしくはないだろうし、守備者ならば飛ぶなと願う。でも、飛ぶ球はそれこそ風まかせだ。不気味に風が強まるたびに、作者の心はおだやかではなくなっている。そんな思いまでして、なぜソフトに打ち込むのか。そのような質問を単なる愚問としてしりぞけるのが、スポーツの魔力というものだろう。今年も芋嵐の季節がやってきた。『白球論』(2000)所収。(清水哲男)


September 0292008

 本流の濁りて早き吾亦紅

                           山田富士夫

集には掲句に続き〈濁流の退きて堰堤吾亦紅〉が並んでいる。人の嗜好を山派、海派と分けると聞くにつけ、川派も入れてくれ、とつねづね思っていた。山の深みに迷う感じも怖いし、海の引く波にも底知れぬ心細さを感じる。川のただひたすら海を目指して行く健やかさが好ましい、などと言うと、このところの不順というより凶悪な豪雨に暴れ狂う映像が繰り返されるように、川もまた穏やかな顔だけ見せるわけではない。以前、静岡の実家の前に流れる川が氾濫し、向こう岸が決壊したことがある。近所中の大人が揃って土手に並び、形のなくなった対岸を眺めていた。雨ガッパ姿の大人が並ぶ後ろ姿も異形だったが、足元にすすきが普段通りに揺れていたのが一層おそろしかった。掲句も激しい濁流に取り合わせる吾亦紅の赤は、けなげというより、やはり取り残された日常のおそろしさをあらわしているように思う。『砂丘まで一粁』(2008)所収。(土肥あき子)


September 0392008

 新涼の水汲み上ぐるはねつるべ

                           岩佐東一郎

い横木の一端に重石をとりつけ、その重みでつるべをはねあげて水を汲みあげるのが撥釣瓶(はねつるべ)。そんなのどかな装置は、時代劇か民俗学の時間のかなたに置き去られてしまったようだ。私も釣瓶井戸は見ているが、撥釣瓶井戸の実物は幼い頃に見た記憶がかすかにあるていど。もはや「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」という千代女の句で、知ったふりをするしかない。秋になって改めて味わう涼しさは、ホッとして身がひきしまる思いがする。「新涼や/水汲み・・・」ではなく、「新涼の水汲み・・・」で「新涼の水」を汲みあげているととらえている。冷やかに澄みきった井戸水であろう。ただの井戸や川から汲むのではなく、撥釣瓶で汲みあげるという設定によって空間が大きくなり、ゆったりとした動きも加わった。のどかにしてすがすがしい動きに加え、かろやかな音さえ聞こえてくるようである。それにつれて人の動きも同時に見えてくる。水を汲みあげるという作業のなかに、人々の生活の基本が組みこまれていた――そんな時代があったことを、この句は映し出している。新涼と水をとり合わせた句は少なくない。西東三鬼には「新涼の咽喉透き通り水下る」の句がある。東一郎は昭和十年代、北園克衛、安藤一郎、岡崎清一郎、他の詩人たちとともに俳句誌「風流陣」の同人だった。ほかに「月の梅うすうすと富士泛(うか)べたり」の句があり、句集に『昼花火』がある。『昼花火』(1940)所収。(八木忠栄)


September 0492008

 一の馬二の馬三の秋の風

                           佐々木六戈

近復刻された岩波写真文庫『馬』の冒頭に「馬といえば競馬と思うほどに、都会人の常識は偏ってしまった。しかし、文化程度の低い日本では馬こそは未だに重要な生活の足である」と記述がある。収められた写真を見ればこの本が編集された1951年当時、農耕馬や荷車を引く輓馬(ばんば)が生活の中にいたことがわかる。といってもこれより数年遅く生まれた私には身近に働く馬の記憶はなく、馬と言えばこの記述にあるとおり競走馬なのだ。次々とやってくる馬はたとえば調教師にひかれてパドックを回る馬、レース前にスタート地点へ放たれる返し馬、ゴールに駆け込む馬の姿が思われる。鋼のように引き締まった馬が、一の馬、二の馬とやって来て、次はと待つところへ秋風が吹きわたってゆく。三の馬が吹き抜ける風に化身したようだし、この空白がやって来ない馬の姿をかえって強く印象づける。夏の暑さに弱い馬も涼しくなるにつれ生来の力強さが蘇る。秋の重賞レースも間近、颯爽とかける馬の姿が見たくなった。『佐々木六戈集』(2003)所収。(三宅やよい)


September 0592008

 月光の走れる杖をはこびけり

                           松本たかし

、降る。風、吹く。鷹、舞う。みんな成句。杖とくれば、つく。が常套。杖、はこぶ。これだけで成句を抜けている。すでにオリジナリティの端緒はここに存する。この句の表現は全体の動きの速度に統一感がある。「月光の走れる」のゆったりした語感が、「はこびけり」の動作のゆったり感につながる。描写がスローモーションで動いているのである。「もの」を写す方法の中のバリエーションとして、遠近法やらモンタージュやらトリヴィアルやらの工夫が生まれた。時間の流れをとどめて映像のコマをゆっくり廻してみせるこんな表現は個性というよりも「写生」の中での新しい方法に至っているといえるだろう。『虚子編新歳時記増訂版』(1951)所載。(今井 聖)


September 0692008

 鬼やんま湿原の水たたきけり

                           酒井 京

蛉捕りは夏休みの思い出だけれど、たまたま訪れた八月の校庭に赤とんぼが群れているのを見て、ああもう秋なんだ、ともの寂しくなった記憶がある。鬼やんまは、一直線に猛スピードで飛んでいて、捕虫網で捕ることなど到底無理だったが、窓から突然すごい勢いで家の中に飛び込んで来ることがあった。部屋の中でもその勢いは止まらず、壁にぶつからんばかりに飛び続けてはUターンする。祐森彌香の〈現世の音消してゐる鬼やんま〉という句を、先日人伝に聞き、飛ぶことにひたむきな鬼やんまの、何度か噛まれた鋭い歯と、驚くほどきれいな青い眼と縞々の胴体をまざまざと思い出した。掲出句の鬼やんまは、湿原にいる雌。水をたたくとは、産卵しているのだろう。残念ながら鬼やんまの産卵に遭遇したことはないのだが、水面と垂直にした胴体を、底に何度も音がするほど突き刺して一心に産卵するという。湿原の水たたきけり、は、そのひたむきさを目の当たりにしながら、さらに観て得た、静かな中に生命力を感じさせる表現である。『俳句歳時記 第四版 秋』(2007・角川学芸出版)所載。(今井肖子)


September 0792008

 悲しみに大き過ぎたる西瓜かな

                           犬山達四郎

西瓜が秋の季語だということは、先日知ったばかりです。季語と季節感のずれについては、この2年でだいぶ慣れてきましたが、それでも今回はさすがに違和感をもちました。本日の句、はじめから「悲しみ」が差し出されてきます。こんなふうに直接に感情を投げ出す句は、読み手としては読みの幅が狭められて、多少の戸惑を感じます。それでもこの句にひかれたのは、「悲しみ」と「西瓜」の組み合わせのためです。たしかに、「悲しみ」をなにかに喩えるのは、他の感情よりも容易なことかもしれません。それでもこの句の西瓜は、充分な説得力を持っています。大き過ぎる西瓜を渡されて、両手で抱えている自分を想像します。抱え切れない悲しみに、途方にくれている自分を想像します。さらにその大きさに、目の前の視界をふさがれた姿を想像します。悲しみにものが見えなくなっている自分を、想像します。どんなささいな悲しみも、当事者にとってはそれ相応の大きさを持つものなのでしょう。そして形は、この句がいうように、とらえどころのない球形なのかもしれません。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2008年9月1日付)所載。(松下育男)


September 0892008

 向ひあふ真夜の西瓜のあかあかと

                           丹羽真一

の句にポエジーを感じるのは、読者がこの一行を「俳句」として書かれているのだと認識して読むからだろう。散文や自由詩の切れ端ならば、他の行で相当ていねいにフォローしてやる必要がありそうだ。叙述としては、とりあえず「真夜(深夜)」に西瓜を食べることになった心持ちを述べているだけである。西瓜を食べるのに別に決まった時間はないのだけれど、深夜に西瓜はなんとなくそぐわない。そのそぐわなさは俳句の季語のしばりから、あるいは世間常識から来ているもので、俳句の読み一般から常識を抜くことは不可能に近い。何かの行きがかりで、作者は深夜に西瓜を食べる羽目になり、それも「向ひあふ」というくらいの大きさのものなので、ちょっとたじろいでいる。とても「かぶりつく」気にはなっていない。手を伸ばす前に西瓜を見て、それが「あかあかと」して見えるところに、たじろいでいる感じがよく出ている。「赤々と」ではなく「あかあかと」見えていて、この「あか」にはいささかの毒気すら感じられる。私はこの句を読んだときに、「ああ、俳句的とはこういうことだな」と直覚した。そしてこの「あかあか」が、しばらく脳裏に焼きついて離れなかった。俳句様式でないと成立しない「詩」が、ここにある。俳句同人誌「琉」(2008年8月・14号)所載。(清水哲男)


September 0992008

 菊の日のまだ膝だしてあそびゐる

                           田中裕明

日重陽(菊の節句)。3月3日の桃の節句や5月5日の端午の節句、7月7日の七夕などの他の五節句に比べるとかなり地味な扱いではあるが、実は「陽数の極である九が重なることから五節句のなかで最もめでたい日」であり、丘に登って菊花酒を酌み交わし長寿を祈るという、きわめて大人向けの節句である。旧暦では十月初旬となり、本来の酒宴はすっかり秋も定着している景色のなかで行うものだが、はっきり秋とわかる風を感じるようになったここ数日、落ち着いて来し方行やく末につれづれなる思いを馳せていることに気づく。掲句では、むき出しの膝が若さを象徴している。四十半ばで早世した作者に、雄大な自然を前に無念の心を詠んだ杜甫の七言律詩「登高」の一節「百年多病(ひゃくねんたびょう)独登台(ひとりだいにのぼる)」が重なる。眼前の健やかな膝小僧が持つ途方もない未来を眩しく眺める視線に、菊の日の秋風が底知れぬ孤独を手招いているように思えるのだ。『田中裕明全句集』(2007)所収。(土肥あき子)


September 1092008

 ブラジルに珈琲植ゑむ秋の風

                           萩原朔太郎

そらく俳人はこういう俳句は作らないのだろう。「詩人の俳句」と一言で片付けられてしまうのか? ブラジルへの移民が奨励され、胡椒や珈琲の栽培にたいへんな苦労を強いられた人たちがいたことはよく知られている。1908年、第一回の移民団は八百人近くだったという。今年六月に「移民百年祭」が実施された。四十年近く前、私の友人の弟が胸を張り、「ブラジルに日の丸を立ててくる!」と言い残してブラジルへ渡った。彼はその後日本に一度も里帰りすることなく、広大な胡椒園主として成功した。ところで、珈琲は秋に植えるものなのか。朔太郎にブラジルへ移民した知人がいて、その入植のご苦労を思いやって詠んだものとも考えられる。「ふらんすへ行きたしと思へども/ふらんすはあまりに遠し」と詩でうたった朔太郎が、フランスよりもさらに遠いブラジルに思いを馳せているところが愉快。遠い国「ブラジル」と「珈琲」のとり合わせが、朔太郎らしいハイカラな響き生んでいる。そういえば、「珈琲店 酔月」というつらい詩が『氷島』に収められている。朔太郎の短歌四二三首を収めた自筆歌集『ソライロノハナ』が死後に発見されているが、俳句はどのくらい作ったかのか寡聞にして知らない。友人室生犀星に対して、朔太郎は「俳句は閑人や風流人の好む文学形式であって同時に老成者の愛する文学」である、と批判的に書いた。犀星は「俳句ほど若々しい文学は他にない」と反論した。朔太郎が五十歳を過ぎたときの句に「枯菊や日々にさめゆく憤り」がある。まさしく「老成者」の文学ではないか。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


September 1192008

 天高しみんなが呼んで人違ひ

                           内田美紗

方になると雷鳴とともに大雨が降りだす油断のならない空模様が続いていた東京もようやくからりと乾いた青空が広がり始めた。そんなふうに空気が澄みわたって見晴らしのいいある日、駅の集合場所でなかなかやってこない一人を待ちわびている。「あっちからくるはずよ。」みなで同じ方向を眺めていると、遠くからやって来る人影が。背格好といい身なりといい、あの人に違いない。おのおのが手を振り、名前を連呼する。手を挙げて合図しているのに、近付いてくる人はつれなくも知らん顔。「こっちに気づいていないのよ。」確信を持った意見になおもみな声を張りあげ、大きく手を振る。やって来る人の顔がはっきり見える距離になって、人違いだったとわかる。ああ、恥ずかしい。それでもみんなと一緒だから、バツの悪さも救われる。(間違えられた人のほうがどんな顔ですれ違っていいんだか当惑気味かもしれないが)これが一人だったらどれだけカッコ悪いことか。でも大きな声を出して人違いしたのも行楽に浮き立つ気持ちと仲間がいたからこそ。これがどんより曇った天気で、一人だったら顔を合わすまでおとなしくしていたでしょうね。『魚眼石』(2004)所収。(三宅やよい)


September 1292008

 星がおちないおちないとおもう秋の宿

                           金子兜太

がおちない、で一息入れて下につづく。山国秩父の夜空だ。鳥取の夜の浜辺で寝ころんで空を見上げているとゆっくり巡っている人工衛星が見えた。海外ではもっとすごいらしい。星がおちてきそう、というのは俗な比喩。秋の宿の「秋の」もむしろおおざっぱなな言い方。ナマの実感の旗を掲げ、俗とおおざっぱを破調の中でエネルギーに転じてぐいぐい押してくる。それが兜太の「俳諧」。加藤楸邨、一茶、山頭火らに共通するところだ。「季題というものは腐臭ぷんぷんたり」とかつて兜太は言った。それは季題にこびりついている古いロマンを本意本情と称して詠うことを揶揄した言葉。兜太の「秋」は洗いざらしの褌のような趣。講談社版『新日本大歳時記』(1999)所載。(今井 聖)


September 1392008

 日の丸を小さく掲げ島の秋

                           阪西敦子

るい句である。日の丸の赤と白、高い空と島を取り囲む海の青、そのコントラストは誰もが感じるだろう。島、というから、そう大きくはない集落。そこにはためく日の丸を、小さく掲げ、としたことで、広がる景は晴々と大きいものになった。日の丸はどこに掲げられてあり、作者の視点がどこにあるのだろう、といったことを考えて読むより、ぱっと見える気持ちのよい秋晴れの島を感じたい。実際は、この句が詠まれた吟行会は、神奈川県の江の島で行われたのであり、日の丸の小旗は、入り江の漁船に掲げられていたのだった。しかし、それとは違う日の丸を思い浮かべたとしても、作者がとらえた晴々とした島の秋は、読み手に十分感じられることだろう。同じ風が吹いているその時に、もっとも生き生きとする吟行句とは一味違って、色褪せない一句と思う。「花鳥諷詠」(2008・七月号)所載。(今井肖子)


September 1492008

 うらがえすやもう一つある秋刀魚の眼

                           五十嵐研三

い先日も、夕食のテーブルの上に、ちょこんと載っていました。勤めから帰って、思わず「サンマか」と、口から出てきました。特段珍しいものではありませんが、箸をつけて口に入れた途端、そのおいしさに素直に驚いてしまいました。掲句、「うらがえすや」とあるのですから、片面を食べ終わって箸で裏返したところを詠っています。眼がもう一つあると、わざわざ言っているからといって、秋刀魚の眼を意識しながら食べていたわけでもないのでしょう。それほどに威圧的に見つめられているわけでもなく、眼のある位置に眼があるのだと、あたりまえの感慨であったのかと思います。とはいうものの、秋刀魚を食べている時に、眼がもう片方にもあるのだとは、通常は考えないのですから、ここに文芸作品としての発見があるのは言うまでもありません。ただ、そんなことはことさらに書くことでもないのです。その、ことさらでないところが、秋刀魚という魚のもっている特長とちょうどよくつりあっており、この句は、日々の生活に添うように、不思議な安心感を与えてくれるのです。『合本俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


September 1592008

 敬老の日のとしよりをみくびる芸

                           瀧 春一

日敬老の日に、たいていの自治体が高齢者を招いて演芸会を開く。このテレビ時代に演芸会でもあるまいにと思うが、我が三鷹市でも77歳以上の市民を対象に「敬老のつどい」がこの土日に開かれた。ちなみに、出し物は青空球児・好児の漫才と菊池恵子の歌謡ショーだった。むろん私は見ていないので、みくびりがあったかどうかは何も知らない。ただ揚句が言うように、テレビではかなり以前から「みくびり芸」が多いことに腹を立ててきた。元凶はNHKのど自慢の司会者だった宮田輝だと、私は言い張りたい。高齢者が登場するや、抱きかかえんばかりの表情で、名前を呼ばずに「おじいちゃん、おばあちゃん」を連発した男だ。彼の前に出たら最後、出演する高齢者は固有の名前を剥ぎ取られ、彼のペースで良き老人役を演じさせられるのだから、たまらない。かつて私は芸能プロまがいの事務所にいたことがあるのでわかるのだが、この宮田ウィルスの跳梁ぶりはひどかった。作者はそんな時代に、敬老行事に招かれたのだろう。瀧春一は十五歳で三越に入社し、戦後は労組の副委員長を務めた苦労人だ。「みくびり」などは、すぐにわかってしまう。この句が哀しいのは、しかしみくびりを見抜きながらも、芸人に「なめるんじゃない」とは言えないところだ。言っても甲斐がない。多くの高齢者は、そんなふうにあきらめているように思える。私もいずれ、そうなるのかもしれない。『硝子風鈴』(1971)所収。(清水哲男)


September 1692008

 月夜茸そだつ赤子の眠る間に

                           仙田洋子

夜茸は内側の襞の部分に発光物質を含有し、夜になると青白く光るためその名が付いたという。一見椎茸にも似ているが、猛毒である。ものごとにはかならず科学的根拠があると信じているが、動き回る必要のない茸がなぜ光るのかはどうしても納得できない。元来健やかな時間であるはずの「赤子の眠る間」のひと言にただならぬ気配を感じさせるのも、月夜茸の名が呼び寄せる胸騒ぎが、童話や昔話を引き寄せているからだろう。ふにゃふにゃの赤ん坊の眠りを盗んで、茸は育ち、光り続けるのだと思わせてしまう強い力が作用する。不思議は月夜によく似合う。あちこち探して、月夜茸の写真を見つけたが、保存期限が過ぎているため元記事が削除されてしまっていた。紹介するのがためらわれるほど不気味ではあるが、ご興味のある向きはこちらで写真付き全文をご覧いただける。タイトルは「ブナの林に幻想的な光」。幻想的というよりどちらかというと「恐怖SF茸」という感じ。〈水澄むや盛りを過ぎし骨の音〉〈鍋釜のみんな仰向け秋日和〉『子の翼』(2008)所収。(土肥あき子)


September 1792008

 教官の帽子の上や秋の雲

                           内田百鬼園

鬼園の小説や随筆は、時々フッと読みたい衝動に駆られる。その俳句もまた然りである。たとえ傑作であれ、月並み句であれ、そこには百鬼園先生独自のまなざしが生き、風が吹いている。こちらの気持ちが広がってくる。掲出句の「教官」は、帽子をかぶって幾分いかめしく、古いタイプの典型的な教官であろうか。その頭上に秋の雲を浮べたことにより、この人物のいかめしさに滑稽味が加味され、どこかしら親しみを覚えたくなる教官像になった。すましこんで秋空の下に直立しているといった図が見えてくる。事実はともかく、さて、この教官を少々乱暴に百鬼園の自画像としてしまってはどうか。そう飛躍して解釈してみると、一段と味わいに趣きが加わってくる。「教官」にはどうしても固い響きがあり、辞書には「文部教官・司法研修所教官など」とある。教員・教師などといったニュアンスとは別である。この教官はのんびりとした秋の雲になど気づいていないのかもしれない。百鬼園は芭蕉の句「荒海や佐渡に横たふ天の川」を「壮大」とした上で、「暗い荒海の上に天の川が光っていると云うのは、滑稽な景色である」と評している。されば掲出句を「教官の帽子の上に秋の雲が浮いていると云うのは、滑稽な景色である」と言えないだろうか。明治四十一年に「六高会誌」に発表された。つまり岡山の六高に入学した翌年の作だから、私の解釈「自画像」は事実とちがう。けれども、今はあえて「自画像」という解釈も残しておきたい。『百鬼園俳句帖』(2004)所収。(八木忠栄)


September 1892008

 満月の終着駅で貝を売る

                           武馬久仁裕

葉だけ追ってゆくと現実のありふれた描写のように思えるのに、俳句全体は非現実的な雰囲気を醸し出している。季の言葉としての「月」はそのさやけさが中心だが、この句は満ちた月と終着という時間性に重きが置かれている。それが季を超えた幻想的なイメージをこの句に与えているのだろう。満月に照らされている駅は出発駅にして終着駅。ここから出立した電車はすべてこの場所へ帰ってくる。そう思えば月光に浮かび上がる終着駅は『銀河鉄道の夜』や『千と千尋の神隠し』にあるようにこの世と違う次元にある駅のようだ。それならば貝を売っている場所はつげ義春の漫画にあるような鄙びた海沿いのモノトーンの景色が似合いだ。無人駅の裏にある小さな露店に暗い裸電球をぶらさげ顔も定かでない人が貝を売っている。売られている貝は粒の小さい浅利、真っ黒なカラス貝?それともこの世から消えた幻の貝?満月の下に売られている貝を想像してみるのも一興だろう。『貘の来る道』(1999)所収。(三宅やよい)


September 1992008

 間引菜をうばつて鶏の走りけり

                           よしひこ

んないきいきした鶏をずっと見ない。烏の賢さや狡さを人間は話題にするけど、鶏の賢さや狡さは語られることはない。嫌がられても烏の方がまだ動物として扱われている。鶏は違う。人にとって鶏はそもそも心や知能を持たない存在なのだ。鳥取県で鶏二千羽と暮らしていたとき、手乗り鶏を作ろうと考えた父は、雛の頃から訓練をして見事に手乗り鶏を育てあげた。シロと呼ばれた白色レグホンはひょいと差し出された僕の腕に飛び乗った。爪が痛いので布を腕に巻かなければならないのが難点。この鶏は地元の新聞に写真入りで報道された。鳥インフルエンザの伝染を防ぐためとして数百万羽の鶏の焼却処分が当然のように語られる現代、一方でトキの繁殖が奇跡のように喜ばれている。ああ、鶏はかわいそうだ。虚子編『新歳時記・増訂版』(1951)所載。(今井 聖)


September 2092008

 馬鈴薯の顔で馬鈴薯堀り通す

                           永田耕衣

本では、縄文時代からあったという里芋に比べると、歴史の浅い馬鈴薯(じゃがいも)だが、今や最もポピュラーな「いも」といえるのではないだろうか。馬鈴薯といえば北海道、原産地といわれるアンデス地方に気候が似ているのだというが、そういえば、インカの目覚め、とか、アンデスレッド、などという品種を見かけることがある。今ちょうど家にあった男爵を手にとってみる。産地は夕張、ごつごつとして、指に大地の乾いた土が付く。その馬鈴薯を掘り通す、しかも馬鈴薯の顔で。一途で力強い表現に惹かれながら、開拓民がジャガイモのすいとんを食べる、という話を何かで読んだことを思い出す。現在の北海道の豊かな実りにたどり着くまでの開拓者の苦労は、推して知るべしだろう。そう思うと、馬鈴薯というひとつの自然の産物の持つ力によって、この句から、人間の生き抜く力がいくばくかの悲しみを伴って迫ってくる。馬鈴薯の句、人間の句。『俳句歳時記 第四版 秋』(2007・角川学芸出版)所載。(今井肖子)


September 2192008

 秋の燈や連弾の腕交差せる

                           丹羽利一

しかに秋には音楽が似合います。澄み切った高い空へ抜けてゆくものとして、この季節に楽器の音を連想するのは自然なことです。句はしかし、日が落ちたあとのゆったりとした時間を詠んでいるようです。居間に置かれたピアノ。弾いているのは幼い姉妹でしょうか。必死になって練習をしているようです。ピアノの発表会に連弾はつきものです。第一部で小さな子が演奏し、第二部のお姉さんたちが出てくる前に、緊張を少し緩めるように、何曲かの連弾がプログラムに入っています。お母さんと娘であったり、ピアノの先生と生徒であったり、でも一番多いのは姉妹の連弾です。練習はどうしてもソロで弾く曲に時間が割かれ、連弾は後回しになってしまいます。それでも弾き始めてみれば、二人分の音の響きは驚くほどに力強く、一人では表現できないところにまで触れてゆくようです。「腕交差せる」という動きは、句を読むものにさまざまな連想をさせますが、ここは素直に読むことにします。腕の動きの柔らかさと、人の思いが、秋の楽器に静かに置かれているようです。よけいなことを意味づけずに、わたしたちはこの句に、じっと耳をすましていればよいのだと思うのです。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2008年9月15日付)所載。(松下育男)


September 2292008

 木守柿万古へ有機明かりなれ

                           志賀 康

の実をすべて採らずに一つだけ残しておく。来年もよく実がなりますようにという願いからか、あるいは全部採ってしまったら鳥たちが可哀相だからか。これが「木守柿」。木のてっぺんに一つぽつんと残された柿は、なかなかに風情があるものだ。作者はこれを一つの灯のようにみなし、蛍光のような有機の明かりとしてではなく、ほの暗い自然のそれとして、「万古(ばんこ)」すなわち遠い昔をいつまでも照らしてくれよと祈っている。私はこの句から、シュペルヴィエルの「動作」という詩を思い出した。草を食んでいる馬がひょいと後ろを向いたときに見たもの。それは二万世紀も前の同じ時刻に、一頭の馬がひょいと後ろを向いて見たものと同じだったというのである。この発想を生んだものこそが、木守柿の明かりであるなと反応したからである。つまり、揚句における木守柿は、シュペルヴィエルにおける詩人の魂だと言えるだろう。魂であるからには、有機でなければならない。作者もまた、かくのごとき詩人の魂を持ちたいと願い、その祈りが木守柿に籠められている。近ごろの俳句には、なかなか見られない真摯な祈りを詠んだ句だ。他の詩人のことはいざ知らず、最近の私は無機の明かりにに毒され過ぎたせいか、この句を読んで、初発の詩心を忘れかけているような気がした。詩を書かねば。『返照詩韻』(2008)所収。(清水哲男)


September 2392008

 山裏に大鬼遊ぶ稲光

                           小島 健

年ほど雷が鳴り響く夏はなかったように思う。雷鳴は叱られているようでおそろしいが、夜空に落書きのように走る稲妻を眺めるのは嫌いではない。学生時代アルバイトからの帰り道、派手な稲妻が空を覆ったかと思った途端、街中が停電したことがあった。漆黒の闇のなか、眼を閉じても開いても、今しがた刻印されたの稲光りの残像だけがあらわれた。あれから私の雷好きは始まったように思う。掲句は、鬼がすべったり転んだりする拍子に稲光が起きているのだという。この愉快な見立ては、まるで大津絵と鳥獣戯画が一緒になったような賑やかさである。また、雷に稲妻、稲光と「稲」の文字が使用されているのは、稲の結実の時期に雷が多いことから、雷が稲を実らせると信じられていたことによる古代信仰からきているという。文字の由来を踏まえると、むくつけき大鬼がまるで気のいい仲人さんのごとく、天と地を取り持っているように見えてきて、ますます滑稽味を加えるのである。〈はじめよりふぐりは軽し秋の風〉〈秋雨や人を悼むに筆の文〉『蛍光』(2008)所収。(土肥あき子)


September 2492008

 谷戸谷戸に友どち住みて良夜かな

                           永井龍男

戸は「やど」とも呼ばれる。「谷(やと/やつ)」のことでもあり、龍男が住んでいた鎌倉に多い地名でもある。詩人・田村隆一はかつて稲村ヶ崎から入った谷戸の奥の小高い土地に住み、書斎の窓からは水平線がよく眺望できた。「良夜」は時期的に今やちょっと過ぎてしまったが、主として十五夜=九月十三日の月の良い夜をさす。鎌倉住いの龍男は名月を見上げながら、同じ鎌倉の谷戸に住んでいる友だちの誰彼を想っているのだろう。良夜であるゆえにことさら、親しい友だちは今どうしているか気になっている。同じように月を眺めているか、まだ片付かない仕事の最中か、のんびり悠然と酒盃をかたむけているか・・・・それからそれへと自在に想像を連ねているのだ。ここでは「鎌倉」という地名は隠されているけれども、「谷戸谷戸」によってその土地が奥床しくも、幸せな一夜のように感じられてくる。昭和十年、横光利一がリーダーになってつくった門下生たちの十日会で、「俳句は小説の修業に必要だ」と横光は俳句を奨励した。そのなかに中里恒子や永井龍男らがいた。横光の歿後も、龍男は文芸春秋句会や文壇俳句会にも参加して、味わいのある俳句を詠んだ。谷戸の多い鎌倉を詠んだ句に対し、橋の多い深川を詠んだ龍男の句に「橋多き深川に来て月の雨」がある。平井照敏編『新歳時記(秋)』(1989)所収。(八木忠栄)


September 2592008

 曼珠沙華思へば船の出る所

                           摂津幸彦

年の今ごろ埼玉の高麗へ曼珠沙華の群生を見に出かけた。鬱蒼と茂る緑の樹下のどこまでも真っ赤な曼珠沙華が広がり広がり続くので不安になった。「曼珠沙華叫びつつ咲く夕焼けの中に駆け入るひづめ持つわれは」(小守有里)という歌のままに、この不思議な花を見つめている自分が内側から歪んでゆくような妙な気分だった。地面からするすると緑の軸が伸びてきて花を開くのが彼岸どきというのも出来すぎている。摂津の句は夢のようなつじつまのあわなさが魅力であるが、この句の場合は「曼珠沙華」と「船」が現実と非現実を結ぶ紐帯となって読み手を不思議な世界へ誘う。ゆく船を見送る寂しい気持ち。その気分は「曼珠沙華」が呼び起こすあの世への旅立ちとも繋がっている。「思へば」という動詞が現実の曼珠沙華から船着場の映像をだぶらせる効果的な言葉として働いている。摂津の句を読んでいると実人生と言葉の二重性を生きた人のせつなさが感じられてしんとした気持ちになる。『摂津幸彦全集』(1997)所収。(三宅やよい)


September 2692008

 親芋の子芋にさとす章魚のこと

                           フクスケ

に煮物の芋と章魚が盛り付けてある。大きめの芋が親芋。小さいのが子芋。子芋が親芋に尋ねる。「なんでここに章魚がいるの?」親芋は章魚に気を使って小声で子芋に応える。「一緒にいると私たちだけでいるよりも美味しくなるからでしょ」「なんで?」「それぞれの美味しいダシが混ざってもっと美味しくなるのよ」「そうかなぁ。なんかイボイボが気持ち悪い」「そんなこというものじゃありません。失礼でしょ章魚さんに」そんなことを言いながら三者はやがて食べられてしまいました。目が点、耳がダンボ、式にちょっと可愛くちょっと戯画化した少女四コマ漫画ふうの俳句は現代のひとつの流行。自己表現という大命題のダサさをおちょくって氾濫しているが、この句ような馬鹿馬鹿しいまでのドン臭さはまた別ものの笑い。やはり流行りの気取った「可笑しみ」の俳諧とも違う。これを作るのも勇気はいるが、取った虚子もつくづく凄い。虚子編『新歳時記・増訂版』(1951)所載。(今井 聖)


September 2792008

 ページ繰るとき長き夜の新しく

                           蔦 三郎

もしろい本を夢中で読んでいる時思わず、どの位まで読んだんだろうと、残っているページの厚さを確かめてしまうのは、子供の頃からの癖だ。引きこまれるように読みながら、残りが半分を切っていると、このわくわくした楽しい時間がもうすぐ終わってしまう、と残念な気分になりながら、それでも早く先が読みたいし、小さいジレンマに陥るのだ。「長き夜」(夜長)は、暦どおり実際に夜が短い夏の「短夜」に対して、春の「日永」同様心情的な言葉だが、確かにこのところ、暗くなるのがめっきり早くなった気がする。過ごしやすくなり寝苦しいこともなくなってくると、かえって目が冴えてしまうものだ。この句の作者もそうなのだろう、かすかな虫の声につつまれながら、読書に耽る幸せな夜を過ごしている。本を読むことでしか得ることのできない、自分だけの空想の世界が、新しく、の一語でどこまでも広がってゆくようだ。『薔薇』(2007)所収。(今井肖子)


September 2892008

 人下りしあとの座布団月の舟

                           今井つる女

布団から下りただけなのですから、数センチの高さのことなのでしょう。しかし、読んだときに思い浮かべたのは、もっと大きな、ゆったりとした動きでした。それはたぶん、「舟」という乗り物が、最後にでてくるからなのです。「人」「月」「舟」、放っておいてもロマンチックな空想へいってしまう言葉たちを、「座布団」が中心にどしりと座り込んで、現実とつなげているようです。それでも依然として句は、人をどこか未知の世界へ運んでくれています。人が座っていたあとの、なだらかなへこみが、舟のかたちをしていると詠っているのでしょうか。あるいはへこみから視線を上空へ向ければ、夜空に舟の形をした月が浮かんでいるということなのでしょうか。かぐや姫を持ち出すまでもなく、あるいは魔法の絨毯に言及するまでもなく、句には、どこか異世界のにおいのする素敵な光がみちています。ここから自由にどこへでも、わたしたちは漕ぎ出してもいいのだと。『合本俳句歳時記 第三版』(2004・角川書店)所載。(松下育男)


September 2992008

 ふるさとは風に逆らふ稲穂かな

                           八木忠栄

者は新潟の出身だ。言わずと知れた米所、一大穀倉地帯である。同じ田園といっても、山口県の寒村のちまちましたそれしか知らなかった私は、新潟の列車の窓から見た行けども尽きぬ田園風景には圧倒された覚えがある。句では、その田園が実りの秋を迎えている。ちょうど今ごろだ。初夏には青田風にそよいでいた稲たちも、いまやずっしりとした稲穂をつけており、少々の風にはびくともしないほどに生長している。そんな「ふるさと」の光景に、これぞ我が風土と、作者は頼もしげに共感している。そしてこのとき「風になびかぬ」ではなくあえて「逆らふ」と詠んだのは、作者がこの土地の歴史を意識しているからだ。有名な戊辰戦争において、決して時の権力に迎合しなかった先祖たちの反骨の気構えを誇りに思っての詠みである。読者としては、その後の「米百俵」の故事も想起され、さらには作者その人の生き方にも思いが及んでゆく。スケールの大きい佳句と言えよう。『身体論』(2008)所収。(清水哲男)


September 3092008

 人間は水のかたまり曼珠沙華

                           松尾隆信

体の化学成分比率は水分が60%、組織が40%であるという。新生児には80%だったという水分量を聞くと、大人になったことで失ってしまったさまざまな潤いが数字に表れているようにも思う。それでもやはり、人間の半分以上は水なのだ。考えたり、悩んだり、いらついたり、右往左往する水のかたまりを、作者はわずかに苦笑しつつ、愛おしく感じているのだと思う。そして曼珠沙華も人臭い花である。法華経に「摩訶曼珠沙華」として登場し、サンスクリット語で 「マカ」は「大きい」、「マンジュシャカ」は「赤い」を意味するありがたい花のはずなのだが、有毒であったり、鮮紅色が災いしたりで「死人花」「捨て子花」「幽霊花」など因果を強く感じさせる別名を持つ。さらに枝葉を許さぬ花の形が、だんだん人間の姿となって、かたまり咲く曼珠沙華が冠を載せた人の群れのように見えてくる。〈渚より先へは行けず赤とんぼ〉〈鯛焼の五匹と街を行きにけり〉『松の花』(2008)所収。(土肥あき子)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます