September 182008
満月の終着駅で貝を売る
武馬久仁裕
言葉だけ追ってゆくと現実のありふれた描写のように思えるのに、俳句全体は非現実的な雰囲気を醸し出している。季の言葉としての「月」はそのさやけさが中心だが、この句は満ちた月と終着という時間性に重きが置かれている。それが季を超えた幻想的なイメージをこの句に与えているのだろう。満月に照らされている駅は出発駅にして終着駅。ここから出立した電車はすべてこの場所へ帰ってくる。そう思えば月光に浮かび上がる終着駅は『銀河鉄道の夜』や『千と千尋の神隠し』にあるようにこの世と違う次元にある駅のようだ。それならば貝を売っている場所はつげ義春の漫画にあるような鄙びた海沿いのモノトーンの景色が似合いだ。無人駅の裏にある小さな露店に暗い裸電球をぶらさげ顔も定かでない人が貝を売っている。売られている貝は粒の小さい浅利、真っ黒なカラス貝?それともこの世から消えた幻の貝?満月の下に売られている貝を想像してみるのも一興だろう。『貘の来る道』(1999)所収。(三宅やよい)
January 132011
一月の魯迅の墓に花一つ
武馬久仁裕
作者が中国へ旅したときに作った句。国内での吟行とは違い海外で句を詠むとなると日本での季節の順行や季の約束ごととは違う世界へ出てゆくことになる。作者は「俳句と短文の織り成す言葉による空間を満足の行く形で作ってみたくなったからである」とこの句集を編むに至った動機をあとがきで述べている。風習の違いや物珍しさで句を詠んでも単なるスナップショットで終わってしまう。(もちろんそれはそれで楽しさはあるのだが)作者は現在の中国を旅して得た経験と歴史や文学で認識していた中国を重ねつつ「日常であって日常でない」世界を描き出そうとしている。一月、と一つという簡潔な数字の図柄が世間の人々に忘れられたかのような寂しい墓の風情を思わせる。その墓の在り方は「藤野先生」や「故郷」といった魯迅の作品に流れる哀感に相通じているように思える。真冬の魯迅の墓に添えられた花の種類は何だったのだろう。「玉門関月は俄に欠けて出る」「壜の蓋締めて遠くの町へ行く」『玉門関』(2010)所収。(三宅やよい)
August 062015
広島に生まれるはずはなかったのだ
武馬久仁裕
無季句。1945年8月6日 午前8時15分。原爆が投下された直後、その悲劇に遭遇した人の口からこの言葉がうめきごえと共に洩らされたかもしれない。あの戦争では偶然のなりゆきで生死を分け、家族と離ればなれになって筆舌に尽くしがたい苦労を背負い続けた人が何万人もいたことだろう。広島、長崎と引き起こされた悲劇。人は生まれる場所を自分で決めることは出来ない。広島に生まれるはずはなかったけど広島に生を受け、原爆にさらされた人。亡くなった人。今は戦後であるが、次に始まる戦争前だと捉える人も多い。憲法をないがしろにする安全保障関連法案が衆議院で強行採決され、きな臭い匂いが高まっている。小さな火種をきっかけに戦争はある日突然始まり、争いはたちまちのうちに拡大してゆく。いまこそ自分が生まれた場所が再び戦争の惨禍に巻き込まれないよう小さな声でも発言していくことが必要なのだろう。『武馬久仁裕全集』(2015)所収。(三宅やよい)
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