謔オミk

September 1992008

 間引菜をうばつて鶏の走りけり

                           よしひこ

んないきいきした鶏をずっと見ない。烏の賢さや狡さを人間は話題にするけど、鶏の賢さや狡さは語られることはない。嫌がられても烏の方がまだ動物として扱われている。鶏は違う。人にとって鶏はそもそも心や知能を持たない存在なのだ。鳥取県で鶏二千羽と暮らしていたとき、手乗り鶏を作ろうと考えた父は、雛の頃から訓練をして見事に手乗り鶏を育てあげた。シロと呼ばれた白色レグホンはひょいと差し出された僕の腕に飛び乗った。爪が痛いので布を腕に巻かなければならないのが難点。この鶏は地元の新聞に写真入りで報道された。鳥インフルエンザの伝染を防ぐためとして数百万羽の鶏の焼却処分が当然のように語られる現代、一方でトキの繁殖が奇跡のように喜ばれている。ああ、鶏はかわいそうだ。虚子編『新歳時記・増訂版』(1951)所載。(今井 聖)




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