阪神巨人、再び「よーいドン」。ナイター観る吾が身もいつか負けがこむ(春一)。(哲




2008ソスN9ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2292008

 木守柿万古へ有機明かりなれ

                           志賀 康

の実をすべて採らずに一つだけ残しておく。来年もよく実がなりますようにという願いからか、あるいは全部採ってしまったら鳥たちが可哀相だからか。これが「木守柿」。木のてっぺんに一つぽつんと残された柿は、なかなかに風情があるものだ。作者はこれを一つの灯のようにみなし、蛍光のような有機の明かりとしてではなく、ほの暗い自然のそれとして、「万古(ばんこ)」すなわち遠い昔をいつまでも照らしてくれよと祈っている。私はこの句から、シュペルヴィエルの「動作」という詩を思い出した。草を食んでいる馬がひょいと後ろを向いたときに見たもの。それは二万世紀も前の同じ時刻に、一頭の馬がひょいと後ろを向いて見たものと同じだったというのである。この発想を生んだものこそが、木守柿の明かりであるなと反応したからである。つまり、揚句における木守柿は、シュペルヴィエルにおける詩人の魂だと言えるだろう。魂であるからには、有機でなければならない。作者もまた、かくのごとき詩人の魂を持ちたいと願い、その祈りが木守柿に籠められている。近ごろの俳句には、なかなか見られない真摯な祈りを詠んだ句だ。他の詩人のことはいざ知らず、最近の私は無機の明かりにに毒され過ぎたせいか、この句を読んで、初発の詩心を忘れかけているような気がした。詩を書かねば。『返照詩韻』(2008)所収。(清水哲男)


September 2192008

 秋の燈や連弾の腕交差せる

                           丹羽利一

しかに秋には音楽が似合います。澄み切った高い空へ抜けてゆくものとして、この季節に楽器の音を連想するのは自然なことです。句はしかし、日が落ちたあとのゆったりとした時間を詠んでいるようです。居間に置かれたピアノ。弾いているのは幼い姉妹でしょうか。必死になって練習をしているようです。ピアノの発表会に連弾はつきものです。第一部で小さな子が演奏し、第二部のお姉さんたちが出てくる前に、緊張を少し緩めるように、何曲かの連弾がプログラムに入っています。お母さんと娘であったり、ピアノの先生と生徒であったり、でも一番多いのは姉妹の連弾です。練習はどうしてもソロで弾く曲に時間が割かれ、連弾は後回しになってしまいます。それでも弾き始めてみれば、二人分の音の響きは驚くほどに力強く、一人では表現できないところにまで触れてゆくようです。「腕交差せる」という動きは、句を読むものにさまざまな連想をさせますが、ここは素直に読むことにします。腕の動きの柔らかさと、人の思いが、秋の楽器に静かに置かれているようです。よけいなことを意味づけずに、わたしたちはこの句に、じっと耳をすましていればよいのだと思うのです。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2008年9月15日付)所載。(松下育男)


September 2092008

 馬鈴薯の顔で馬鈴薯堀り通す

                           永田耕衣

本では、縄文時代からあったという里芋に比べると、歴史の浅い馬鈴薯(じゃがいも)だが、今や最もポピュラーな「いも」といえるのではないだろうか。馬鈴薯といえば北海道、原産地といわれるアンデス地方に気候が似ているのだというが、そういえば、インカの目覚め、とか、アンデスレッド、などという品種を見かけることがある。今ちょうど家にあった男爵を手にとってみる。産地は夕張、ごつごつとして、指に大地の乾いた土が付く。その馬鈴薯を掘り通す、しかも馬鈴薯の顔で。一途で力強い表現に惹かれながら、開拓民がジャガイモのすいとんを食べる、という話を何かで読んだことを思い出す。現在の北海道の豊かな実りにたどり着くまでの開拓者の苦労は、推して知るべしだろう。そう思うと、馬鈴薯というひとつの自然の産物の持つ力によって、この句から、人間の生き抜く力がいくばくかの悲しみを伴って迫ってくる。馬鈴薯の句、人間の句。『俳句歳時記 第四版 秋』(2007・角川学芸出版)所載。(今井肖子)




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