早寝早起き、職場ではうたた寝。何がどうなっているのか、仕様がないなあ。(哲




2008ソスN10ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 04102008

 人形焼ころころ生まる秋日和

                           石原芳夫

田原駅前にあったデパートの地下のガラス張りの一角。人形焼きが次々に焼き上がっていくのを、おそらくぽかんと口を開けて飽きずに見ていた。脈絡も理由もなく、断片的に記憶されている場面の一つ。薄暗い蛍光灯の光の中で続く単純作業に、なぜか見入ってしまうのだった。この句は九月二十四日、吟行句会で出会った一句。吟行場所は浅草だったので、仲見世の人形焼き屋である。この日は朝からよく晴れ少し暑いくらいの一日で、色濃い秋日が浅草の賑やかな風景と混ざり合った、まさに秋日和だった。吟行は、行ばかりになって、吟がおろそかになってはいけない、と言われる。歩いていてもできません、立ち止まってともかく観よ、空を見上げて、それから足元を観よ、とも。それはなにも、眉間に皺を寄せて難しいことを考えよというわけではないだろうけれど、それにしてもついうろうろきょろきょろ。何気なく立ち止まった人形焼き屋の店先で、こんなふうに、軽やかでくっきりした吟行句が生まれることもあるんだなあ、と。(今井肖子)


October 03102008

 私忌いな世界忌の大夕焼

                           高橋睦郎

のボタンを押す権利を持ってる人が、自分の死後もこの現実世界が続くことをねたましく腹立たしく思い、自らの死の瞬間にボタンを押して世界を消滅させる。そうすれば私忌が世界忌になる。日曜の朝の子供向けドラマのような想定を、死ぬということがむしょうに怖かったころよく考えた。ドラマだとここでウルトラマンか仮面ライダーが現れ、その悪の支配者を倒して終わる。かくしてまた現実世界は平安を取り戻すのである。ここで作者が言うのは「認識」のことだ。知覚するがゆえに我が存する。自分が死ねばおのずから世界も消滅する。自分が死んだあと、自分にとっては存在しない「世界」を夕焼が照らす。これこそ「虚」の美しさだ。『別冊俳句・平成秀句選集』(2007)所載。(今井 聖)


October 02102008

 椎茸の見給うは我が和服かな

                           永田耕衣

思議な句だ。この椎茸はどこにある椎茸なのだろう。人工栽培のために木陰に並べられた椎や楢のほだ木のあちこちにむくむく生え出た椎茸なのか、それともお膳の上に甘辛く煮付けて出された椎茸なのか。丸太の椎茸なら和服を正面に見ているのかもしれないし、皿の中の椎茸なら見上げる視線なのかもしれない。どちらにしてもこの句の中心は椎茸と和服の関係で、椎茸が見ているのが和服を着た自分でなく、和服そのものという発想が面白い。しかもこれと対になって並んでいる句が、「椎茸を見給うは我が和服かな」と、助詞一字を変えるだけで主体と対象との関係を一瞬にして裏返しているのだから、更におかしさが増幅される。椎茸と和服の出会いをこんな風に俳句で創造できる自在な感性が素敵だ。そういえば耕衣翁はなまずが好きでよく句にしているが、椎茸のつるん、ぬめっとした感触はなまずの頭に似てはいないか。『永田耕衣句集』(2002)所収。(三宅やよい)




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