昨夜の阪神横浜戦降雨のためノーゲームに。恵みの雨となりそうな予感。(哲




2008ソスN10ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 08102008

 家遠く雲近くして野老掘る

                           佐藤春夫

老(ところ)は薯蕷(とろろ)芋や山芋と属は同じヤマイモ科だが、別のものである。苦いので食用には適さず、薬用とされる。ヒゲ根が多いところから長寿の老人になぞらえて、「海老(えび)」に対して「野老」と記すといういわれがおもしろい。高い山で野老を探して掘りつづけているのである。だから晴れわたった秋空に浮く雲は、すぐ近くに感じられる。もちろん奥山だから、わが家(あるいはその集落)からは、遠いところに来てしまっている。野老を掘っているうちに、いつのまにか山の高いあたりまで到りついたのであろう。広大な風景のなかの澄みわたった空気、その静けさのなかで黙々と掘る人の映像が見えてくる。この場合の「遠」と「近」との対照的な距離が、句姿を大きく見せている。いかにも秋ではないか。春夫の句について、村山古郷は「形や内容にとらわれないで、のびのび嘱目感想を詠んだ」と評している。秋を詠んだ他の句に「柿干して一部落ある夕日ざし」「思ひ見る湖底の村の秋の燈を」などがある。いずれも嘱目吟と思われる。『能火野人(のうかやじん)十七音詩抄』(1964)所収。(八木忠栄)


October 07102008

 水澄むや水のやうなるビルの壁

                           長嶺千晶

句でまず思い浮かべたのは、表参道に並ぶハナエモリビル。立体的な外壁のガラスに街路樹や空が映る様子に「ああ、東京ってすごい」と、素直に見とれたものだった。丹下健三氏の設計によるこのビルは、映り込みを徹底的に意識して作られたものなので、ことに美しく感じたのだが、それにしても最近の高層ビルは全面がのっぺりと鏡のようになっているものが多い。高層化に伴い空が映ったり、雲が映ったりで美しいかといえば、接近しすぎの隣のビルを映しているだけだったりする。それでもビルに映し出される風景は、どこか虚像めいていて、不思議な感触を覚える。掲句も、無機質なビルの壁を見上げているが、それを「水のやう」とまことに美しく捉えている。都会の風景を瑞々しく表現するのは容易でない。しかも「水澄む」という自然界の季語を扱うことで、現代の都会にも季節が流れ、生活が存在することを実感させている。現代社会に顔をしかめるのではなく、この町のなかで、機嫌良く生きていこうとする作者の姿勢に強く共感する。〈百年の秋風を呼ぶ大樹かな〉〈良夜かな人すれ違ひすれ違ひ〉『つめた貝』(2008)所収。(土肥あき子)


October 06102008

 男なら味噌煮と決めよ秋の鯖

                           吉田汀史

はは、こりゃいいや。俳句で「鯖」といえば夏の季語。まだ痩せていて、そんなに美味いとは思わない。対して「秋の鯖(秋鯖)」は脂がのっていて美味である。もっとも青魚が苦手な人には敬遠されそうだが、味噌煮という調理法はそういう人の口にも入るように開発されたのではあるまいか。あるいは貧弱な夏季の鯖用だったのかもしれない。いずれにしても鯖は釣り人が嫌う(釣っても自慢にはならないから)ほどにたくさん釣れるので、昔から庶民の食卓に乗せられつづけてきた。安定食屋の定番でもあった。そんなありふれた魚ゆえ、能書きも多い。ネットをめぐっていたら、こんな意見が出ていた。「俺は、サバは塩焼きか水煮で食するのが正解なので、味噌煮は間違っているのではないかと思うわけです。というのも、サバって味が濃い魚でしょう。それを味の濃い味噌で食べると、両者の特徴が相殺されてしまって、サバを味わっているのか味噌を味わっているのかがよくわからなくなる。ここはやはり塩焼きが正解なのではないでしょうか」。作者は、よほど味噌煮好きなのだろう。「秋鯖に味噌は三河の八丁ぞ」の句もある。この種の意見の持ち主に対して、ごちゃごちゃ言うな、鯖は味噌煮に限るんだと叱っている。「男なら」の措辞は、味噌煮といういささか大雑把な料理法に通じていて、句に「味」をしみこませている。俳誌「航標」(2008年10月号)所載。(清水哲男)




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