Suica普及で消える都心の券売機。公衆電話同様、また困る人が増えるぞ。(哲




2008ソスN10ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 14102008

 さはやかに湯をはなれたるけむりかな

                           安藤恭子

日に引き続き「爽やか」句。人が何をもって爽やかさを実感するかは、まことにそれぞれと思う。掲句は一見、「熱湯」と「爽やか」とはまるで別種なものであるように感じるが、熱された水のなかで生まれた湯気がごぼりと水面へと押し出され、そして「けむり」として空中へと放たれる。立ち上る煙が秋の空気に紛れ、徐々に薄れ溶け込んでいく様子は、心地よく爽快な気分をもって頭に描かれる。「煙」も「けむり」と平仮名で書かれるだけで、水から生まれた透明感を感じさせている。また、水が蒸発して雲になり、雲が雨を降らせ、また地に戻り、という健やかに巡る水の旅の一コマであることにも気づかされる。俳句は語数が限られているだけに、たびたび立ち止まって考えてみることが必要な、ある意味では不親切な文芸である。しかし、そこに含まれている内容が意外であるほど、理解し、共感しえたときの喜びは大きい。一方句集のなかには〈烏賊洗ふからだの中に手を入れて〉という作品も。こちらは掲出の頭に描かれる景色とはまったく逆の、内蔵を引き抜かれ、ぐったりとしたイカの生々しくもあやしい感触を手渡しされた一句であった。〈小揺るぎもせぬマフラーの上の顔〉『朝饗』(2008)所収。(土肥あき子)


October 13102008

 爽やかや弁当の箸忘れをり

                           浅見 百

を忘れたのは小学生くらいのお子さんだろう。句集には、この句の前に「子育ての右往左往に水澄めり」と載っている。普通の日なら学校給食があるので、今日は秋の遠足か運動会か。いずれにしても、子供にとっては愉しかるべき日のはずだ。天気もすこぶるつきの上天気。その爽やかさに作者も気分良く背伸びなどをしているときに、食卓の上に忘れられている箸に気がつき、はっとした。こういうときの親心は、むろん届けてやろうという具合に動く。作者にもかつて箸を忘れた体験があるわけで、あの不便さったらない。私などは仕方がないから、鉛筆を箸代わりにしたものだが、食べにくいし、第一格好が悪い。だから一瞬届けてやろうと気持ちは動いたのだが、しかし作者は「まあ、いいか。何とかするだろう」とそのままにしておくことにした。すなわちこの句の面白さは、天候によって人の気持ちに差異が出ると言っているところだ。これがしとしとと雨の降っている日だったりすると、同じ状況でも、心の動きは違ってくる。とても「爽やか」なので、そんなに深刻には考えないのである。晴天には総じて心をゆったりと持つことができ、悪天候だとくよくよとなりがちだ。そのあたりの人情の機微がさりげなく詠まれていて、いまの私も、なんだか爽やかな気持ちになっている。『時の舟』(2008)所収。(清水哲男)


October 12102008

 人間が名付け親なり鰯雲

                           酒井せつ子

際に空を仰いで見るというよりも、この季節になると、鰯雲の「写真」をたびたび見ることがあります。ネットであったり、新聞であったり、雑誌であったり、まるで「鰯雲」という新商品がいっせいに発売されたかのように、空の写真が頻繁に日常の中に入り込んできます。たしかにそのすがたは美しく、目を雑誌に落としている瞬間も、遠くの空を見渡しているような心持になるものです。今日の句は、鰯雲の見た目を詠っているのではなく、句を作る発想の足元を、一歩後ろへ下げています。すでにあるものとしてそのものを詠うのではなく、そのものの成り立ちや起源に目を向けることは、俳句の世界では必ずしも珍しいことではありません。それでもこの句が私の目を惹いたのは、「ああそうか、ひとつひとつの名前の奥には、名づけるという人の動作が隠されているのだ」ということを、改めて思い出させてくれたからなのです。さらに、「名付け親」の一語が、妙に物語めいた雰囲気を醸しだしていて、読み手を空想の世界に導いてくれるのです。ただ漫然と空を見上げているだけでも、わたしたちが「名付け親」なのだと思えば、鰯雲との距離も、かすかに近づいてくるはずです。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2008年10月6日付)所載。(松下育男)




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