もう一度見たいと願っていたフェリーニの『青春群像』を偶然DVD店で発見。(哲




2008ソスN10ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 17102008

 ときに犬さびしきかほを秋彼岸

                           山上樹実雄

世というものがあったのなら、僕は犬だったような気がする。初めて出遭った犬も僕には妙に親近感を示す。「不思議よねぇ。この犬、他人にはだめなんだけど」なんて言われるとこちらも尻尾をふりたくなる。昔から犬顔だと言われ、犬という渾名をつけられたこともある。僕はどんな犬だったのだろうか。目をつぶって念じて観ると、白粉花なんかが路傍に咲いている坂のある街が見えてきた。何種もの血が混じってなんとも愛嬌のある風貌をした僕は、毎日そんな坂を上り下りしたのだった。散歩の帰りに坂の上から見る茜雲のきれいだったこと。写生という方法は、瞬間のカットの中に永遠を封印する。秋の日向の道にしゃがんで犬の背や頭を撫でているときに、犬はふっと人間のような表情を見せる。犬の前世は人間だったのかも知れぬ。人間から犬へ、犬から人間へ。輪廻の永遠の時間の中の瞬間が今だ。秋彼岸とはそのことへの意識。『晩翠』(2008)所収。(今井 聖)


October 16102008

 硝子器に風は充ちてよこの国に死なむ

                           大本義幸

識はなくとも篤実な人柄を感じさせる俳人がいる。この作者の俳句を読むとしみじみと懐かしさがこみあげてくる。「熱き尿放つ京浜工業地帯の夜の農奴よ」「旗を灯に変えるすべなし汗の蒲団」など時代のやるせなさを詠じた句も多いが、重苦しい現実との闘いを経ても作者の心はへし折れることはない。「朝顔にありがとうを云う朝であった。」抒情溢れる句が生み出す優しい強さに力づけられる。掲句について大井恒行は解説で「ついに風が充ちないことを知りながら、なお、充ちてよと願わざるを得ないのである。」と書き綴っている。「硝子器」とは現実に息詰まりそうになる自分自身であろうが、その内側にある精神はすがすがしい風に充たされ、解き放たれることを乞わずにはいられない。純粋なものへの憧れを抱き続ける心がこの国の情けない姿に悲嘆しつつも、「この国に死なむ」とすべてを受け入れようとしているのだろう。苦しみの底にこそ軽やかな精神が存在する。作者がたどってきた複雑な人生の色合いが俳句に織りなされた一冊だと思う。『硝子器に春の影みち』(2008)所収。(三宅やよい)


October 15102008

 母恋ひの若狭は遠し雁の旅

                           水上 勉

は十月頃に北方から日本にやってきて、春先まで滞在する。真雁(まがん)はきれいなV字形になって飛び、菱喰(ひしくい)は一列横隊で飛ぶ。雁にも種類はいろいろあるけれども、一般によく知られているのは真雁か菱喰である。秋の大空を渡って行く雁を見あげながら、若狭出身の自分は遠いその地に残してきた母を思い出し、恋しがっているのであろう。遠い地にはしばらく帰っていないから、母にもしばらく会っていない。渡る雁は鳴いていて、その声を母を恋う自分の声であるかのように重ねながら、しばし呆然としているのかもしれない。そんな心境を、石田波郷は「胸の上に雁ゆきし空残りけり」と詠んだ。波郷には雁が去って行った空が、勉には故郷若狭が見えている。いきなりの「母恋ひ」は、私などには面映くて一瞬戸惑ってしまうけれども、若い日の水上勉の世界としてみればいかにも納得がいく。ここは北陸の若狭であるだけに、句にしっとりとした味わいが加わった。当方が若い日に読んで感激した直木賞作品「雁の寺」を、やはり想起せずにはいられない。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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