読書週間。秋は意外に本が売れないという話も。今年もあと二ヶ月となりました。(哲




2008ソスN10ソスソス31ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

October 31102008

 黄菊白菊自前の呼吸すぐあへぐ

                           石田波郷

郷最後の句集の作品。結核による呼吸困難の重篤な状態の中で詠まれた。いわゆる境涯俳句や療養俳句と呼ばれた作品は自分の置かれた状態を凝視する点を意義としている。従来の「伝統俳句」は花鳥風月をテーマとして詠じ、それら「自然」の背後に微小なる存在として、あるいはそれらによって象徴されるべき受身の立場として、「我(われ)」が在った。いな、我はほとんど無かったと言った方がよい。この句、呼吸の苦しさは切実な我を反映しているが、そこに斡旋された季語においては、映像的、感覚的な計らいがなされている。黄菊白菊という音のリズムに乗った上句は、リズムとともに、黄と白のちらちらする点滅を思わせる。危機に瀕している己れの生に向かって波郷は黄と白の信号を点滅してみせる演出をする。波郷の凄さである。『酒中花以後』(1970)所収。(今井 聖)


October 30102008

 朝寒の膝に日当る電車かな

                           柴田宵曲

中にあたる昼の日差しは汗ばむようだが、朝は厚めの上着がほしいぐらい冷え込むようになってきた。おそらくは通勤の膝に当たっている日差しをぼんやりと眺めているのだろう。昔の電車だから今のように暖房が完備されているわけはなく、木の床板や車窓の隙間から入ってくる風に身体をすくめながら膝にあたるかすかなぬくみに朝の寒さを実感している。そんな情景が想像される。作者の『古句を観る』(岩波文庫)はこのコーナーでもよく紹介される本だが、何度読んでも飽きない。元禄時代の無名俳人の句を取り上げているのだが、的をはずさない句の解釈もさることながら、簡潔で味わい深い文章の魅力に引きつけられる。広い教養に裏打ちされた作者の人柄が文章に反映しているのだろう。この本はしばらく絶版だったが、多くの読者の希望で復刊されたと聞く。宵曲は一時期ホトトギスに所属、丸ビルの事務所にも通っていたが、のちには寒川鼠骨を助けて『子規全集』を編集。その交遊のうちに俳句を続けたという。『虚子編季寄せ』(三省堂・1941)所載。(三宅やよい)


October 29102008

 月見酒天動説のまことかな

                           小林直司

時記に月見酒あり、月見団子あり。なるほど、お月見にも辛党と甘党があるわけだ。月見酒とか雪見酒という風流の極致と言いたい言葉は古くからあるけれど、今日、風流をたしなむ俳人はともかくとして、なかなか実行する機会は少ないのではないか。ままよ、さっぱりお月さまが見えない薄闇のなかで、ワイワイ飲んでいる。そんな風情を私は一概に否定はしたくない。コペルニクスが、太陽が宇宙の中心だと唱えた地動説以前の宇宙構造説が天動説である。宇宙科学の「まこと」はともかく、地動説よりも天動説のほうがポエティックではないか? 宇宙原理に基づいた、まっとうな地動説ばかりがまかり通るようでは、世の中はつまらないことおびただしい。「天動説のまこと」とは大胆にずばり言い切ったものである。下五が憎らしいほどに功を奏している。地動説危うしとなって、月見酒の席は気宇壮大にとほうもなく盛り上がっているにちがいない。つい最近、私が参加した句会で「鬼胡桃何がなんでも天動説」に出くわして、思わず高点を投じてしまった。地動説を信じて疑わない精神こそ厄介なのではあるまいか。「朝日新聞」2008年9月29日の「朝日俳壇」で大串章選で入選した句。(八木忠栄)




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