コンピューターによる売り込み電話。一方的に録音音声が流れてくる。迷惑千万。(哲




2008ソスN11ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 03112008

 よく喋る女に釣瓶落の日

                           飯田綾子

いぶんと古い言い回しに思えるが、山本健吉が提唱して定着したというから、「釣瓶落(し)」はかなり新しい季語なのだ。でも、もうそろそろ廃れる運命にはあるだろう。肝心の「釣瓶(つるべ)」が消えてなくなってしまったからだ。日常的に井戸から釣瓶で水を汲んだことのある人も、みんな高齢化してきた。句意は明瞭だ。暗くなる前にと思って買い物をすませてきた作者だったが、家の近所でばったり知り合いの主婦と出会ってしまった。そこで立ち話となったわけだが、この奥さん、とにかくよく喋る人で、なかなか話が終わらない。最初のうちこそ機嫌よく相槌など打ってはいたものの、だんだん苛々してきた。そのうちに相槌も曖昧になり生返事になってきたというのに、相手はまったく頓着せず、油紙に火がついたように喋りつづけている。なんとか切り上げようとタイミングを計っているうちに、ついに釣瓶落しがはじまって、あたりは薄暗くなってくる。冷たい風も吹き出した。しかしなお、延々と喋りやめない「女」。夕飯の支度などもあり、気が気でない作者のいらだちは、他人事だから可笑しくもあるけれど、当人はもう泣きたい思いであろうか。結局、別れたのは真っ暗になってからだったのかもしれない。滑稽味十分、情けなさ十分。とかくこの世はままならぬ。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)


November 02112008

 子蟷螂生まれながらの身の構え

                           松永昌子

が家には、今年で5歳になる犬(ヨークシャーテリア)がいます。むろん成犬ですが、からだはいつまでも小さく、散歩時に抱っこをして歩いていると、永遠に子供でいるような錯覚を覚えてしまいます。両腕で抱えて顔を寄せると、きまって顔をなめてきますが、そのたびに、なんと大きく口が裂けているものかと、自分の顔とは違った形に、あらためて驚きます。生き物というものは、ものみな種としての固有の形を持っており、そのことの驚きを感じればこそ、自分とは異なる生き物をいとおしく思う気持ちは、さらに増してきます。本日の句も、感じ方の根は同様のところにあるのではないでしょうか。子供の蟷螂(かまきり)は、まだ生まれたばかりなのに、すでに蟷螂の形をし、親と同じような姿で、鎌を空に上げています。その不可思議さを、あたらしい驚きとして、あるいは生きることの静かな悲しみとして、あらためて受け止める姿勢を、わたしは嫌いではありません。「読売俳壇」(「読売新聞」2008年10月27日付)所載。(松下育男)


November 01112008

 卓拭いて夜を切り上げるそぞろ寒

                           岡本 眸

年の秋の印象は、月が美しかったことと、昨年に比べて秋が長い、ということ。そして、日中はいつまでも蒸すなあ、と思っているうちに、朝晩ぐっと冷えてきた。やや寒、うそ寒、そぞろ寒など、秋の冷えの微妙な表現。秋冷、冷やか、を過ぎて、どれも同じ程度の寒さというが、語感と心情で使い分けるようだ。うそ寒の、うそ、は、薄(うす)、が転じたものだが、語感からなのか、なんだか落ち着かない心情がうかがえ、そぞろ寒、は、漫ろ寒、であり、なんとなく寒い感じ。この、なんとなく、が、曖昧なようで妙な実感をともなう。秋の夜、いつの間にか虫も鳴かなくなったね、などと言いながらつい晩酌も長くなる。さてそろそろ、と、食器を片付け食卓をすみずみまで拭く。きびきびとしたその手の動き、拭き終わった時にもれる小さいため息。今日から十一月、と思っただけで、やけに冬が近づいた気のする今夜あたり、こんなそぞろ寒を実感しそうだ。『新日本大歳時記 秋』(1999・講談社)所載。(今井肖子)




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