November 052008
それぞれに名月置きて枝の露
金原亭世之介
仲秋の名月をとうに過ぎ、月に遅れて名月の句をここに掲げることを赦されよ。芭蕉や一茶の句を挙げるまでもなく、名月を詠んだ句は古来うんざりするほど多い。現代俳人・中原道夫は「名月を載せたがらざる短冊よ」と詠んだ。掲出句は月そのものを直に眺めるというよりは、何の木であれ、その枝にたまっている露それぞれに宿っている月を観賞しているのである。雨があがった直後にパッと月が出た。この際「名月」と「露」の季重なり、などという野暮を言う必要はあるまい。実際にそのように枝の露に月が映って見えるかどうか、などという野暮もよしましょう。露ごとに映った月、露を通した月は、直に眺める月よりも幻想的な美しさが増幅されているにちがいない。露の一粒一粒が愛らしい月そのものとなって連なり輝いている。名月で着飾ったような枝そのものもうれしそうではないか。「置きて」がさりげなく生きている。名月の光で針に糸を通すと裁縫のウデが上達する、という言い伝えがあるらしい。うまいことを風流に言ってみせたものである。世之介は10代目馬生(志ん生の長男。志ん朝の実兄)に入門し、勉強熱心な中堅落語家として、このところ「愛宕山」や「文七元結」などの大ネタで高座を盛りあげてくれている。「かいぶつ句集」43号(2008)所載。(八木忠栄)
February 042015
母逝くや雪泣く道は骨の音
金原亭世之介
詠まれている「道」は二つ考えられる。母の訃報を聞いて急いで駆けつける雪道と、もう一つは母の葬列が進む雪道である。「骨」が詠まれているところから、後者・葬列の雪道の可能性が強いと考えて、以下解釈する。葬列は静かに雪道を進む。踏みしめる雪のギュッギュッと鳴る音がする。その音は母を送りつつ心で泣いている自分(あるいは自分たち一同)の悲しみとも重なる音である。せつないようなその音はまた、亡くなった母の衰えてなお軋む骨の音のようにも聞こえる。火葬場へと送られて行く母の骨の音であるばかりでなく、送って行く人たちの悲しみで骨が軋むような音でもあるのだろう。長い列をつらねて野辺送りをする光景は、現在では見られなくなった。霊柩車が悲しみを吹き消すかのように死者をさっさと運んで行くが、雪道を進む霊柩車であっても、「雪泣く道」や「骨の音」の悲しみに変わりはない。世之介は落語協会の中堅真打で、高座姿がきれいだ。俳句も熱心である。他に「母よまだ修羅を押すのか年の暮」がある。『全季俳句歳時記』(2013)所収。(八木忠栄)
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