朝の通勤時、猛然と走っている人が多い。今日は突き飛ばされませんように。(哲




2008ソスN11ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 17112008

 葱買ひにゆくだけのことペダル踏む

                           フレザー文枝

りたてて上手な句ではないし、ましてや凄い句でもない。でも私が着目したのは、ほとんど習慣になっている自分の行為を客観視してみたところだ。葱であろうが大根や人参であろうが、それを買いに行くのに自転車を使う。そういうことは多くの人が日常的にやっていることだし、何の変哲もないことではあるのだけれど、作者はペダルを漕ぎながら、多分ふと自分はいま、何のために自転車に乗って急いでいるのだろうかと思ってしまった。たかが葱二三本を買うために、一生懸命ペダルを踏んでいる自分をあらためて意識してみて、なんだか可笑しいような不思議なような気分になっているのである。人はふつう、自分の行為をいちいち見張るようにして生きているわけではない。とくに習慣や癖などについては、無自覚であるのが当たり前だろう。しかしこの句のように、その無自覚な部分に自覚の光を当ててみると、なかなかに面白い発見やポエジーが潜んでいないとも限らない。案外、揚句の視線は句作りの盲点かもしれないと思ったのだ。作者は故人。片仮名の姓は、夫君がアメリカ人だったことによる。句集は娘さんが「ママ、あなたの句集ですよ」と纏めたものである。『バラ百本』(私家版・2008)所載。(清水哲男)


November 16112008

 短日や一駅で窓暗くなり

                           波多野惇子

語は短日で、冬です。つり革につかまりながら、窓の外を見るともなく見ていたのでしょうか。前の駅で停車していたときには、夕暮れの駅舎の形や、遠くの山並みがはっきりと見えていたのに、つぎの駅についたときにはもう、とっぷりと暮れており、駅の灯りもまぶしげに点灯しています。むろん、駅と駅の間にはそれほどの距離があったわけではなく、だからこそ、日の暮れの早さに驚きもしているわけです。そういえば、わたしの働くオフィスには、前面に空を映した大きなガラス窓があり、最近は窓の外が、午後もすこし深まると、にわかに暗くなります。まさに「いきなり」という感じがするのです。冬の「時」は徐々に流れるのではなく、性急に奪い去られるものなのかもしれません。「一駅」という語は、その後ろに、駅と駅の間に流れ去って行く風景をそのまま想像させてくれる、うつくしい語です。句が横の向きへ走りさっていってしまうような、名残惜しさを感じます。うしなうことのさみしさを、読むことのできる季節になりました。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


November 15112008

 鷹去りていよいよ鴨の小春かな

                           坊城俊樹

本伝統俳句協会が作っているカレンダーがあるのだが、我が家ではこれをトイレにかけている。協会員の入選句やインターネット句会の方の作品の他、虚子他の色紙や短冊がカラー印刷されているのをトイレに、というのも気が引けるが、毎日つぶさにゆっくり読めるので私には最適なのだ。掲出句は、十一月のページに載っていて、十月分をぺりっと破いた瞬間、短冊の文字が目に飛び込んできた。小春か、いい言葉だな、と思ってあらためて読むと、鷹、鴨、と合わせて季題が三つ。いずれも弱い季題ではないのにもかかわらず、うまく助け合って、きらきらとした小春の句となっている。景は鴨の池だろう、もしこれが、鴨に焦点を当てて、鷹去りていよいよ鴨の日和かな、などとしてしまうと、鷹と鴨が対立しておもしろみがなくなってしまう。あえて、小春かな、と、大きくつかんだことで、三つの季題が助け合い、まことに小春という一句になった。なるほど、と毎日拝見している。(今井肖子)




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