元厚生次官宅襲撃事件。無根拠のまま「すわ、テロだ」と騒ぎ立てたマスコミ。(哲




2008ソスN11ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 25112008

 枇杷咲くや針山に針ひしめける

                           大野朱香

語は枇杷の花。今頃が盛りといえば盛りの花だが、夕焼け色の美しい果実に引きかえ、人間に愛でられる可能性を完全に否定しているような花群は、本当にこれがあの枇杷になるのか、と悲しくなるほど地味な姿だ。一方、針山に針が刺されていることに別段不思議はないのだが、先の尖った針がびっしりと刺さっている様子もなにかと心を騒がせる。これらのふたつは「ひしめける」ことによって、まったく違う質感であるにも関わらず、お互いに触れ合っている。群れ咲く枇杷の花は決して奥ゆかしくもなく陰気で、どちらかというと貪欲な生命力さえも感じられる。針山という文字から地獄を連想される掲句によって、それは地獄に生える木なのだと言われれば、なんとなく似合う風情もあるように思えてしまう。と、ここまで書いて、これでは枇杷の木に対してあんまりな誹謗をしているようだが、そのじつ枇杷の実は大好物である。果実が好ましいあまり、花も美しくあって欲しかったという詮無い気持ちが本日の鑑賞の目を曇らせている。〈ダッフルコートダックスフンドを連れ歩き〉〈年の湯や両の乳房のそつぽむき〉『一雫』(2008)所収。(土肥あき子)


November 24112008

 煙草火の近づいてくる寒夜かな

                           盛生高子

くて真っ暗な淋しい夜の道である。肩をすぼめるようにして家路を急いでいると、ちらっと遠くに小さな赤い火の玉のようなものが見えた。何だろう。目を凝らすと、だんだんそれは明滅しながら近づいてくる……。なあんだ、煙草の火か。作者はそう納得して一瞬ほっとはしたものの、しかしながら、なんとなく不気味な感じは拭えない。体感的な寒さに、心理的なそれが加わった図だ。誰にも似た経験はあるだろうけれど、暗闇から煙草の火が近づいてくるのは結構こわいものがある。明滅するからなのだ。近づいてくるのが懐中電灯の明かりだったら、さして不気味ではないけれど、煙草の火は暗くなったり明るくなったりするだけにこわい。つまり火の明滅の正体はわかっていても、その明滅は人の息遣いを伝えるものであるから、かなり生々しく「人」を意識してしまうことになるのである。夜の道で人の息遣いを感じさせられているこわさが、よりいっそう周囲の寒さを助長してくるという句だ。ところで、闇の中で煙草を吸うのは、同じ状況で饅頭を食うのと同様に、ちっとも味がしないと言ったのは開高健だった。逆に、饅頭とは違い、闇の中でも煙草だけは美味く感じると書いているのは古井由吉である。私は美味い派だが、あなたが煙草好きならば、どちら派でしょうか。『現代俳句歳時記・冬』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


November 23112008

 自動ドア閉ぢて寒雲また映す

                           松倉ゆずる

動的に動くものに対して、わたしはなかなか慣れることができません。自動改札では、いくども挟まれたことがありますし、自動的に出てくるはずの水道も、蛇口の下にどんなに手をかざしても、水が出てこないことがあります。本日の句に出てくる自動ドアも、ものによって開くタイミングが異なり、開ききるまえに前にすすんで、ぶつかってしまうことがあります。それはともかく、この句を読んで思い浮かべたのは、ファーストフード店の入り口でした。つめたく晴れ渡った空の下の、繁華街の一角、人通りの多い道に面した店の自動ドアは、次から次へ出入りする人がいて、なかなか閉じることがありません。それでもふっと、人の途切れる瞬間があって、やれやれと、ドアは閉じてゆきます。そのガラスドアに、空と、そこに浮かぶ冬の雲の姿がくっきりと浮かんでいるのが見えます。やっと戻ってきてくれた空と雲も、早晩、人の通過に奪い去られてしまうのです。次にやってくる客は、自動ドアの中の雲に足を踏み入れて、店に入ってゆくのです。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)




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