近くにいながら行けなかった映画館に行きました。それだけのことですが……。(哲




2008ソスN11ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 26112008

 木の葉降り止まず透明人間にも

                           望月昶孝

格的な冬の訪れである。木の葉があっけなく降るがごとくに盛んに散っている。地上に降る。つまり地上に住むわれら人間に降りかかってくる。それどころか、じつは私たちのすぐ傍らにいるかもしれない透明人間にも、降りかかって止まない。透明人間ゆえに、木の葉は何の支障もなく降りかかっているにちがいない。ものみな透けるような時季に、懐かしい響きをもつ透明人間をもち出したところに、この俳句のおもしろさと緊張感が立ちあがってきた。透明人間の存在そのものが、それとなく感じられる冬の訪れの象徴のように思われる。いや、この季節、人々は着ぶくれているけれども、それこそ透け透けの透明人間になってしまっている、と作者はとらえているのかもしれない。葉をなくしてゆく樹木も、次第に透き通ってゆくように感じられる。「木の葉降り止まず」で想起されるのは、加藤楸邨の名句「木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ」である。作者には、おそらく楸邨の句も意識のなかにあったと思われる。両句は「透明人間」と「いそぐないそぐなよ」がそれぞれのポイントになっている。昶孝には「地虫出づ兵馬俑を引き連れて」の句もある。昶孝は詩人で、詩人たちの「ハイハット句会」のメンバー。俳号は暢孝。「長帽子」70号(2008)所載。(八木忠栄)


November 25112008

 枇杷咲くや針山に針ひしめける

                           大野朱香

語は枇杷の花。今頃が盛りといえば盛りの花だが、夕焼け色の美しい果実に引きかえ、人間に愛でられる可能性を完全に否定しているような花群は、本当にこれがあの枇杷になるのか、と悲しくなるほど地味な姿だ。一方、針山に針が刺されていることに別段不思議はないのだが、先の尖った針がびっしりと刺さっている様子もなにかと心を騒がせる。これらのふたつは「ひしめける」ことによって、まったく違う質感であるにも関わらず、お互いに触れ合っている。群れ咲く枇杷の花は決して奥ゆかしくもなく陰気で、どちらかというと貪欲な生命力さえも感じられる。針山という文字から地獄を連想される掲句によって、それは地獄に生える木なのだと言われれば、なんとなく似合う風情もあるように思えてしまう。と、ここまで書いて、これでは枇杷の木に対してあんまりな誹謗をしているようだが、そのじつ枇杷の実は大好物である。果実が好ましいあまり、花も美しくあって欲しかったという詮無い気持ちが本日の鑑賞の目を曇らせている。〈ダッフルコートダックスフンドを連れ歩き〉〈年の湯や両の乳房のそつぽむき〉『一雫』(2008)所収。(土肥あき子)


November 24112008

 煙草火の近づいてくる寒夜かな

                           盛生高子

くて真っ暗な淋しい夜の道である。肩をすぼめるようにして家路を急いでいると、ちらっと遠くに小さな赤い火の玉のようなものが見えた。何だろう。目を凝らすと、だんだんそれは明滅しながら近づいてくる……。なあんだ、煙草の火か。作者はそう納得して一瞬ほっとはしたものの、しかしながら、なんとなく不気味な感じは拭えない。体感的な寒さに、心理的なそれが加わった図だ。誰にも似た経験はあるだろうけれど、暗闇から煙草の火が近づいてくるのは結構こわいものがある。明滅するからなのだ。近づいてくるのが懐中電灯の明かりだったら、さして不気味ではないけれど、煙草の火は暗くなったり明るくなったりするだけにこわい。つまり火の明滅の正体はわかっていても、その明滅は人の息遣いを伝えるものであるから、かなり生々しく「人」を意識してしまうことになるのである。夜の道で人の息遣いを感じさせられているこわさが、よりいっそう周囲の寒さを助長してくるという句だ。ところで、闇の中で煙草を吸うのは、同じ状況で饅頭を食うのと同様に、ちっとも味がしないと言ったのは開高健だった。逆に、饅頭とは違い、闇の中でも煙草だけは美味く感じると書いているのは古井由吉である。私は美味い派だが、あなたが煙草好きならば、どちら派でしょうか。『現代俳句歳時記・冬』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)




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