師走です、極月です。このあわただしい月が、何故か昔から好きでした。(哲




2008ソスN12ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 01122008

 谷内六郎のおかつぱ冬夕焼

                           山田富士夫

かっぱ頭でいちばん有名なのは、サザエさん家のワカメちゃんだろう。戦後すぐに登場したこの女の子の髪形は、現在まで一度も変わっていない。漫画ならではの特権だが、作者や私が子供だったころの女の子は、ほぼ全員が同様におかっぱだった。学校での集合写真が、そのことを証明している。谷内六郎が好んで描いたのも、おかっぱや三つ編みの少女である。そして、誰もが同じ顔をしている。ノスタルジーにとって重要なのは、このようなキャラクターや周辺の風景などの単純化だろう。むろん実際にはやんちゃな子、内気な子などいろいろいたのだけれど、振り返ってみればそのようなキャラクターなどはどうでもよくて、みんな同じに幼かったという一点で、郷愁の焦点は絞られるものなのだ。長い歳月が、過去の細々とした現実を洗い流してしまうとでも言うべきか。このときに冬の夕焼けは、ノスタルジーの深度をより増幅させるのに効果的だ。時刻も早く、すぐに消えてしまう冬の夕焼け。作者は谷内六郎の絵を見ながら、思い出しているのは実は女の子のだれかれのことではなくて、おかっぱの女の子たちと一緒だったそのころの自分のことなのだと思う。その自分のありようからしてもはや単純であるという思いが、歳月茫々の観を深め、ふたたび三度おかっぱの絵に戻っては、ここまで生きてきた人生の不思議を思っていると読んだ。そう言えば天野忠に『単純な生涯』という凄い詩集がある。『砂丘まで一粁』(2008)所収。(清水哲男)


November 30112008

 欲しきもの買ひて淋しき十二月

                           野見山ひふみ

聞に折り込まれたチラシに興味がなくなったら、欝(うつ)の前兆だと、かつて聞いたことがあります。特にスーパーの安売りのチラシに目を凝らしているうちは、生きることに貪欲な証拠であり、サラダ油の値段を比較することが、大げさに言うなら、生きることの勢いにつながっているのかもしれません。本日の句に詠まれている「欲しきもの」とは、しかし、もうすこし高価なものなのでしょうか。長年欲しいと思い続けていたものを、決意して買ったあとの、ふっと力の抜けた感覚が、見事に詠まれています。その店を通るたびに、いつかは買おうと思っていたのです。幾度も迷ったあげく、なにかのきっかけがあって、手に入れてはみたものの、心はなぜか満足感に満たされることがありません。むしろ、買いたいと思うものがなくなったことの淋しさのほうが、強く感じられるのです。12月といえば、クリスマスプレゼントや年末の買い物などがあり、また、多くの会社ではボーナスの支給される時期でもあり、「買いて淋しき」という言葉が、素直に結びつきます。街はクリスマスのイルミネーションで明るすぎるほどに輝き、そのまぶしさがいっそう、個人の影を色濃くしているようです。『角川俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


November 29112008

 近々と山のまなざし冬ごもり

                           手塚美佐

日「水と俳句」という宇多喜代子氏の講演を拝聴する機会があったのだが、その中で氏は、「祖母はいつも、山は水のかたまりだ、と言っていた」と話された。不動の山に息づいている水の鼓動。雪に覆われていても、すっかり枯れ山となっていても、冬の山は、ただ眠っているわけではないのだと、あらためて気づかされた。掲出句の作者は、冬日のあたる縁側にいるのだろうか。山そのものが間近にあるわけではなく、じっと見ているうちに、山と共に暮らしているということを、山の存在を感じた、というのだろう。まなざし、の語に、命の源としての山を敬う心持ちが感じられる。この句は、『筆墨 俳句歳時記 冬・新年』(2002・村上護編著)より。この歳時記には、多くの作者自筆の色紙や短冊が掲載されている。掲出句の色紙は、中央に、山のまなざし、が高く置かれて語りかけてくる。作者の個性が強調され興味深い。(今井肖子)




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