流行語大賞に「アラフォー」と「グ〜!」。アラセブ(笑)にはピンと来ない。(哲




2008ソスN12ソスソス3ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 03122008

 木枯やズボンの中に折れ曲がり

                           嶋岡 晨

枯を詠んだ俳句は古今、いったいどれだけの数にのぼるだろうか。それにしても、ズボンの中に木枯を呼びこんだ例は他にあるのかしらん? しかも、その木枯は「折れ曲が」っているのだから尋常ではない。いや、そもそもズボンは折れ曲がるものなのだ。ズボンの中の木枯は脛毛に戯れ、寒そうな脛の骨を容赦なくかき鳴らし、ボキボキと折れ曲がっているのかもしれない。痛々しく折れ曲がったあたりが一段と寒く感じられる。そもそもズボンの中というのは暖かいはずなのに、妙に寒々しさが感じられる場所ではないか。冬の早朝に、ズボンに脚を通す瞬間のあのひんやりとした感触は、男性諸氏ならとっくに実感済みのはず。大きいワザとユーモアとを感じさせる句である。晨(しん)は詩人で、エリュアールやアラゴンの訳詩でも知られる。句集の跋文冒頭に「昭和が平成に改まったころから、何故か意識的に俳句(のようなもの)を書きとめるようになった」とある。もともと詩の仲間でもあった平井照敏に兄事したこともある。他に「木枯に肋の骨のピチカート」という一句もある。木枯が脛の骨と肋の骨とを吹き抜けて、寒々とした厳寒を奏でているようではないか。『詩のある俳句』という著作もある。『孤食』(2006)所収。(八木忠栄)


December 02122008

 ひよめきや雪生のままのけものみち

                           恩田侑布子

句は「生」に「き」のルビ。上五の「ひよめき」とは見慣れぬ言葉だが、「顋門」と表記し、広辞苑によると「幼児の頭蓋骨がまだ完全に縫合し終らない時、脈拍につれて動いて見える前頭および後頭の一部」とある。身体の一部とはいえ、「思」という漢字が使われていることや、大人になれば消滅してしまうものでもあり、幼児期だけに見られる、思考が開閉する場所のように思えるのだ。掲句では、雪野原のなかで踏み固められた一筋のけものみちに、ひよめきをそっと沿わせた。乱暴に続く雪の窪みが幼児の骨の形態を連想させるだけでなく、ただ食べるために雪原を往復するけものの呼吸が、熱く伝わるような、ひよめきである。〈刃凍ててやはらかき首集まり来〉〈ひらがなの地獄草紙を花の昼〉『空塵秘抄』(2008)所収。(土肥あき子)


December 01122008

 谷内六郎のおかつぱ冬夕焼

                           山田富士夫

かっぱ頭でいちばん有名なのは、サザエさん家のワカメちゃんだろう。戦後すぐに登場したこの女の子の髪形は、現在まで一度も変わっていない。漫画ならではの特権だが、作者や私が子供だったころの女の子は、ほぼ全員が同様におかっぱだった。学校での集合写真が、そのことを証明している。谷内六郎が好んで描いたのも、おかっぱや三つ編みの少女である。そして、誰もが同じ顔をしている。ノスタルジーにとって重要なのは、このようなキャラクターや周辺の風景などの単純化だろう。むろん実際にはやんちゃな子、内気な子などいろいろいたのだけれど、振り返ってみればそのようなキャラクターなどはどうでもよくて、みんな同じに幼かったという一点で、郷愁の焦点は絞られるものなのだ。長い歳月が、過去の細々とした現実を洗い流してしまうとでも言うべきか。このときに冬の夕焼けは、ノスタルジーの深度をより増幅させるのに効果的だ。時刻も早く、すぐに消えてしまう冬の夕焼け。作者は谷内六郎の絵を見ながら、思い出しているのは実は女の子のだれかれのことではなくて、おかっぱの女の子たちと一緒だったそのころの自分のことなのだと思う。その自分のありようからしてもはや単純であるという思いが、歳月茫々の観を深め、ふたたび三度おかっぱの絵に戻っては、ここまで生きてきた人生の不思議を思っていると読んだ。そう言えば天野忠に『単純な生涯』という凄い詩集がある。『砂丘まで一粁』(2008)所収。(清水哲男)




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