開戦から67年。戦後半世紀以上の「平和」を想う。NO MORE WAR! (哲




2008N128句(前日までの二句を含む)

December 08122008

 人込みに又逢ふ人や十二月

                           植田 航

年を迎えるための買い物客でごったがえしている「人込み」だろう。歳末の人込みは、普段のそれとはだいぶ違う感じがする。物理的には変わらないにしても、普段のそれが人々の目的意識がばらばらであるのに比して、年末のそれはおおかたが年用意のためとわかっているからだ。見知らぬ他人にも、なんとなく連帯感のような感情すら覚えてしまう。この「又逢ふ人」は見知らぬ人であっても構わないけれど、むしろ顔見知りのほうが面白い。そんなに親しくはないが、道で会えば会釈をかわすくらいの関係である。だから最前、人込みですれ違ったときにも、お互いにすぐに気がついて、軽く頭をさげあったばかりなのだ。が、作者が買い物に手間取ってうろうろしているうちに、またその人に出会ってしまった。先方も、たぶんうろうろと同じところを歩き回っていたのだろう。こういうときは、なまじ顔看取りであるだけに、バツが悪い。もう一度会釈をするわけにもいかないので、半分は口の中で「やあ」などと言いながら苦笑ともなんとも言い難い表情をつくるしかないのである。いかにも「十二月」ならではの人情の機微を良くとらえた佳句である。『半日の旅』(2008)所収。(清水哲男)


December 07122008

 入れものがない両手で受ける

                           尾崎放哉

由律俳句といっても、その表れ方は作品によってさまざまです。ですから読み手も作品ごとに、受け止め方を変えなければなりません。今日の句に限っていうなら、この短い作品には、もともと具体的なものや人、あるいは季語があったのに、なんらかの理由で取り払われてしまったのではないかと、感じさせるものがあります。読者としては、とうぜん失われたものがなにかということに思いを馳せることになります。作者はいったい何を受け取ろうとしていたのか。あるいはどんな姿勢をとっていたのか。手の形はどうしていたのか。しばらく考えをめぐらせたあとで、そんな詮索が意味のないことであると知るのです。結局、作者が詠みたかったのは、失われた「入れもの」自体であったと気づくのです。何ものも媒介するものがなく、この世をじかに受け止めていることの心細さ、といってしまっては解釈が単純すぎるでしょうか。五七五という熱い「入れもの」を手放した作者の思いを、両手でじかに受け止めさせられているのは、ほかならぬ読者なのかもしれません。『底のぬけた柄杓』(1964・新潮社)所載。(松下育男)


December 06122008

 原人の顔並びをり夕焚火

                           小島 健

い時、温かいものはありがたい。たとえばお風呂、湯船に首までつかると心身共にくつろぐ。でも、お風呂が心地よいのは温かいからだけではない、浮力が大きい要素なのだと思う。体が軽く感じられることが、心地よさを増している。そして焚火。街中ではもうできないが、ともかく焚火をしていると自然に人が集まってきたものだ。もちろん温かいからなのだが、これもそれだけではない。炎には人を惹きつける何かがあるからだろう。ものが燃えるさまには、つい見入ってしまう。焚火を囲んで、不規則にゆらめく炎に照らされた顔は、みなじっとその炎を見つめている。まったく違った顔でありながら、炎を見つめるどこか憑かれたような表情には、初めて火を自ら作り出した原始の血の片鱗が、等しく見えているのだろう。そして変わらず地球は回り続けて、短い冬の夕暮が終わる。『蛍光』(2008)所収。(今井肖子)




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