これほどの格差社会では歳末助け合いや社会鍋など何のツッバリにもならぬ。(哲




2008ソスN12ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 12122008

 山中の吹雪抜けきし小鳥の目

                           福田甲子雄

生の動物にとって厳しい冬がやってきた。烏も鳶も雀も狸も狐もみんな飢えている。山は削られ海は埋め立てられ宅地やマンションに造成されて、人間と共生する野生は次第に追い詰められていく。デパートの地下食品売り場を歩いたり、回転寿司の席に腰掛けるとき、月に一日くらい動物たちにこの場を開放してやったらと夢想する。デパ地下に烏や鳶や犬猫が溢れ、満腹になるまで食べる。回転寿司の席に座った犬は遠くから流れてくるお目当てのマグロを尻尾を振りながら待つ。公園や街角で野良猫に餌をやっている人よ、烏にも少しお裾分けしてやってくれないか。金の都合ばかりで、こんなに自然を痛めつけたのにまだ人間と一緒にいてくれている友だちのために。『白根山麓』(1982)所収。(今井 聖)


December 11122008

 帰るバスなくなつてをり雪女郎

                           火箱游歩

女と雪女郎とはどこが違うのか?講談社版「日本大歳時記」の説明には「雪女郎は雪女よりさらに妖怪じみて悪性であると考えられているようである。つまり雪夜に人を迷わすのは雪女郎とか雪鬼、雪坊主といわれるものの場合が多い」とある。しかし掲句の「雪女郎」はそうワルに思えない。一時間に一本あるかないかのバスを逃してしまい、この雪女郎は呆然と時刻表を見ているのだろうか。ひとり取り残されてしまった雪女郎は仕方なく吹雪をひゅーひゅー巻き起こして人を脅かしているのかもしれない。それとも反対に、この雪女郎は麓の町で遊びすぎて山へ帰るバスに乗り遅れたのかもしれない。電気に照らされて乾いた町の夜は雪女郎には辛かろう。「瀬に下りて目玉を洗ふ雪女郎」(秋元不死男)なんて雪女郎にはおどろおどろしい句が多いようだが、バスに乗り遅れた雪女郎に親しみがわくのは、彼女同様私もドジだからだろう。『雲林院町』(2005)所収。(三宅やよい)


December 10122008

 極月や冬という名のデザイナー

                           ホーカン・ブーストロム

前、このサイトでスウェーデン人の俳句を紹介したことがある。それと同じ日本とスウェーデン初の俳句アンソロジー『四月の雪』から掲出句を採った。原句の直訳は「十二月の今日/冬という名のデザイナーは/そのコレクションを披露する」(舩渡和音訳)。これを清水哲男が翻案した。ちなみにスウェーデンの俳句界では、季語は定められていないそうだから、ここでは「極月」と「冬」の同居に目くじらをたてる必要はあるまい。「冬という名のデザイナー」が効いている。たしかに雪や寒さだけでなく、冬の諸々をデザインする者がどこかにひそんでいるのかもしれない。やさしいデザイナー、きびしいデザイナーなど、いろんなタイプのデザイナーが季節を操っているにちがいない、と考えると愉快ではないか。冬に限らず、春の、夏の、秋の腕っこきのデザイナーももちろんいるだろう。彼が持っている折々のコレクションを次々に披露してくれる――そんなふうに季節の変化を受けとめるロマンを持てたらすばらしい。海外での俳句熱は年々盛んである。日本とスウェーデンに限らず、俳句を通して日本と他の国の人々の感性、あるいは文化のちがいや共通性を見出してゆくことの意義は大きい。同書からもう一句ご紹介しよう、「高圧線凍れる国に弦を張る」。『四月の雪』(2000)所収。(八木忠栄)




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