寒くなりましたね。この寒空の下にリストラで寮を追い出される人が大勢いる。(哲




2008ソスN12ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 17122008

 師走何ぢゃ我酒飲まむ君琴弾け

                           幸田露伴

走という言葉を聞いただけで、何やら落着かないあわただしさを感じるというのが世の常だろう。ところが、師走をたちどころに「何ぢゃ」と突き放しておいて、あえて自分は酒を飲もうというのだから豪儀なものだ。しかも、傍らのきれいどころか誰かに向かって、有無を言わさず琴を所望しているのだから、恐れ入るばかりである。時代も男性も軟弱でなかったということか。せわしなく走りまわっている世間を尻目に、我はあえて泰然自若として酒盃を傾けようというのである。「君」はお酌をしたその手で琴を弾くのだろうか。「ほんまに、しょうもないお人どすなあ」と苦笑して見せたかどうか、てきぱきと琴を準備する、そんなお座敷が想像される。擬古典派として、史伝などの堅い仕事のイメージが強い作家・露伴であったればこそ、このような句を書き、あるいは実際に琴を弾かせ、鳴物を奏でさせたと想像することもできる。押しつまった師走という時季だからこそ、おもしろさが増して感じられるし、共鳴も得られるのかもしれない。約二十五年を要して成した露伴の『評釈芭蕉七部集』は労作であり、芭蕉評釈として今も貴重である。別号を蝸牛庵と称し、『蝸牛庵句集』がある。ほかに「吹風(ふくかぜ)の一筋見ゆる枯野かな」「書を売つて書斎のすきし寒(さむさ)哉」といった冬の句もある。『蝸牛庵句集』(1949)所収。(八木忠栄)


December 16122008

 いつ見ても駆けてるこども冬休み

                           前田倫子

よいよ12月も半ば。大人の年末への気の焦りや荷の重さなどとは一切関係なしに、クリスマスやお年玉などお楽しみ満載の冬休みを前に胸をおどらせている子どもたちを心からうらやましく思うこの頃である。ひたすら走ったり、ジャンプしたり、ぐるぐる回ったりして費やされる子どもの無尽蔵のパワーは一体どこから湧いてくるのだろう。2008年の流行語に「アラフォー(アラウンドフォーティー=40歳前後)」があった。従来女性の年齢に対しての微妙な言い回しは、24歳までの商品価値を「クリスマスケーキ」、31歳の未婚を「大晦日」など、すべて上限を使用することで、孤立した崖っぷち感を強調していたが、今回のアラウンドには上下もろともに含んでいるという曖昧さにより、俄然現代風の語感を与えた。30代後半から40代前半まで約10年という大きな幅は、過ぎていく日々が年々加速されていくのを直視することなく、当分同じ時間が繰り返されるように思わせる心地よさも備えている。子どものいつまでも駆けることのできるエネルギーを、擬似的に体験させているような言葉である。〈教室に三十匹の雪兎〉〈山茶花や無口の人とゐて無口〉『翡翠』(2008)所収。(土肥あき子)


December 15122008

 皆伐の淵に泡古る年のくれ

                           竹中 宏

慣れない言葉だが、漢字を眺めているうちに、おおよその見当はつくはずだ。「皆伐(かいばつ)」とは、森林などの樹木を全部または大部分伐採することを言う。反対に、適量を抜き切りするのが「択伐(たくばつ)」である。したがって、この「淵」は川の淵ではなく、奥深い山の湖沼のそれだろう。私は、つげ義春の漫画にでも出てきそうな沼を想像してしまった。もともとは鬱蒼たる樹木に取り囲まれていた沼だったのが、いまでは痛々しくもその淵までをも赤裸に姿をさらしている。周囲にはかつて盛んに元気よく水分を吸い上げてくれていた樹木の影もない。生気を失った沼はひどく淀んでいて、淵には泡がぶつぶつと浮いたまんまだ。それらは古びて茶褐色に変色し、沼の淀みをますます露(あらわ)にしているのである。まさにそんな感じの「年のくれ」だと、作者は喩的に述べているのだと思う。とりわけて今年の暮は、嫌でもそんな印象が濃い。淵にこびりついているような古びた泡は年が明けても消えることがないように、今の世の中の淀みも汚い泡も露なままに、そう簡単には消えてくれる可能性はないのである。まったく、なんという歳末であろうか。俳誌「翔臨」(第63号・2008年11月)所載。(清水哲男)




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