二日続けて深夜にマンション警報装置が誤作動。おかげで眠くて仕様がない。(哲




2008ソスN12ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 19122008

 卵落した妻睨れば妻われを視る

                           野宮猛夫

には「み」のルビあり。貧しさの中で、とげとげしくなる夫と妻。卵を落した妻をとがめる視線を夫が送れば、妻はあんたこそなによと夫を鋭く見返す。「オイ、もったいないじゃないか」「そんなこと、あんた、わたしに言えるの?」無言のうちに交わされる二種類の視線、「みる」が夫婦の関係、生活を浮き彫りにする。卵の貴重さも時代を映す。貧しさがテーマの句は「社会性俳句」の時代にはデモやストの句と並んでひとつの典型だった。しかし、それらの多くは貧しい庶民の「正しさ」「美しさ」を強調したため、政治宣伝のポスターのような図柄になった。ヘルメットを被りハンマーをもった青年が「団結」と叫んでいるようなどこかの国のポスターと同じである。「社会性俳句」は個別の内面に入ることを為し得なかったために「流行」に終わる。人間の、自己の心理を自己否定のようにえぐりだすこんな句は俳句の可能性を確実に拡げている。こんな切迫した瞬間の感覚に季節感の入り込む余地はない。『地吹雪』(1959)所収。(今井 聖)


December 18122008

 やはらかに鳩ゐて冬の屋根瓦

                           中里夏彦

き締まった空気と屋根瓦の堅さ、冷たさ。その感触は鳩がいてこそだろう。屋根にきている鳩は冬毛をぷわぷわふくらませ、霜の降りた瓦をいっそう冷たく感じさせる。むかし屋根に鳩小屋をしつらえ、朝などにいっせいに飛ばして訓練している様子があちこちで見られたものだ。メールが飛び交う現在、伝書鳩を使うこともないし競技用に飼われる鳩もめっきり少なくなったことだろう。町のあちこちで迷惑がられている土鳩の先祖は役目から解放された伝書鳩かもしれない。いったん鳩が棲みつくと屋根やベランダが糞で真っ白にされて大変だと聞く。「餌をやらないでください」といった貼り紙も目にする。冬の瓦に乗る鳩もそれを眺める人間も離れているうちはいいが、密集した都会で共に暮らすには難しくなってきている。『俳句の現在 3』(1983)所載。(三宅やよい)


December 17122008

 師走何ぢゃ我酒飲まむ君琴弾け

                           幸田露伴

走という言葉を聞いただけで、何やら落着かないあわただしさを感じるというのが世の常だろう。ところが、師走をたちどころに「何ぢゃ」と突き放しておいて、あえて自分は酒を飲もうというのだから豪儀なものだ。しかも、傍らのきれいどころか誰かに向かって、有無を言わさず琴を所望しているのだから、恐れ入るばかりである。時代も男性も軟弱でなかったということか。せわしなく走りまわっている世間を尻目に、我はあえて泰然自若として酒盃を傾けようというのである。「君」はお酌をしたその手で琴を弾くのだろうか。「ほんまに、しょうもないお人どすなあ」と苦笑して見せたかどうか、てきぱきと琴を準備する、そんなお座敷が想像される。擬古典派として、史伝などの堅い仕事のイメージが強い作家・露伴であったればこそ、このような句を書き、あるいは実際に琴を弾かせ、鳴物を奏でさせたと想像することもできる。押しつまった師走という時季だからこそ、おもしろさが増して感じられるし、共鳴も得られるのかもしれない。約二十五年を要して成した露伴の『評釈芭蕉七部集』は労作であり、芭蕉評釈として今も貴重である。別号を蝸牛庵と称し、『蝸牛庵句集』がある。ほかに「吹風(ふくかぜ)の一筋見ゆる枯野かな」「書を売つて書斎のすきし寒(さむさ)哉」といった冬の句もある。『蝸牛庵句集』(1949)所収。(八木忠栄)




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