仕事納めの方も多いでしょうね。一年間、ご苦労様でした。わが社は29日です。(哲




2008ソスN12ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 26122008

 数の子の減るたび夜を深くせり

                           星野高士

年、大皿に盛られた数の子が次第に減っていく。年賀の客が現れて歓談は深夜に及ぶ。数の子とともに正月も去っていく。年々、クリスマスや「新年」がきらいになる。さあ、祝えといわれて聖者の生誕を祝い、早朝、並んで神社の鐘を鳴らし、正月は朝から漫才だ。僕のような思いの人は多いのだろうと思うが、そういう発想自体が陳腐なのだろう。とりたてて言うほどのこともないとみんな黙して喧騒が過ぎるのを待っているのだ。葬式のように作法が多く考えるひまもないほど慌しいのは、遺されたものの悲しみを軽減するためだというのも定説。だとすると国民的行事はどういう思考を人にさせないように用意されたものなのか。庶民の鬱憤を解消させるガス抜きなのか。そう簡単にはガスは抜かれないぞ。そんなことを数の子を噛みながら深夜まで考えてみよう。『無尽蔵』(2006)所収。(今井 聖)


December 25122008

 ペンギンと空を見ていたクリスマス

                           塩見恵介

朝枕もとのプレゼントに歓声をあげた子供たちはどのくらいいるだろう。クリスマスは言うまでもなく世界中の子供たちが夜中にこっそりやってくるサンタさんを待つ日。わくわくと見えないものを「待つ」気持ちがこの句に込められている。ヨチヨチ歩きで駆けまわるペンギンは愛嬌があって可愛いが、好奇心が極めて強い動物だそうだ。時折3,4匹かたまって微動だにせずじっとしているが、あれは何を見ているのだろう。掲句のように、「空を見ていた」と言われてみれば飛べないペンギンが空の彼方からやってくるものをじっと待っているようにも思える。柵の向こうから眺める動物園の観客の視線と違い、作者はペンギンと肩を並べて空の向こうを眺めている。待っているのはトナカイに乗ってやってくるサンタさんか、降臨するキリストか。クリスマスは期待に胸ふくらませ何かがやって来るのを待つ日。ペンギンと並んで空を見上げる構図が童話の中の1シーンのようで、今までにない新鮮なクリスマスを描き出しているように思う。『泉こぽ』(2007)所収。(三宅やよい)


December 24122008

 雨に来て霙に帰る別れかな

                           山手樹一郎

ごろの季節、青く澄みきった関東の天候とは対照的に、雪国ではたいてい空は鉛色で雨の日が多い。気温がグンと下がれば雨はたちまち霙(みぞれ)となり、さらに雪になってしまうことも。霙が降るような季節になると、それがいつ雪に変わるかという緊張を覚える。雨→霙→雪。もちろん、掲出句の舞台は雪国というわけではなかろう。雨のなかを訪ねてきて何事かすっかり長々と話しこみ、さて帰ろうという段になって外に目をやると、いつか霙に変わっていたという時間の経過。そこに驚きがこめられている。短詩型における大胆な転換のテンポは、今更ながらみごとである。どんな用件だったにせよ、熱を帯びた長い時間が経過していたことを雨→霙が語っている。こんなケースで、雨が一挙に雪に変わってしまうことも珍しくはない。雨から霙に変わった、そのことに驚いている人それぞれの表情は描写されてはいないけれど、言葉の裏にくっきりと読みとることができる。雨が霙に変わるだけでなく、逆に霙が雨に変わってしまうこともある冬の微妙な天候。樹一郎は長谷川伸門下の時代小説作家として売れっ子だった。数ある作品のなかで代表作は何といっても「桃太郎侍」。俳句はほかに「新春の灯とかはりけり除夜の鐘」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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