図書館で落語のCDを借り、DVDショップで西部劇を買い、これが私の年用意。(哲




2008N1227句(前日までの二句を含む)

December 27122008

 カレンダーふはりと揺れし湯気立てて

                           栗林眞知子

題は湯気立(ゆげたて)。ストーブや火鉢の上に、やかんや鉄瓶など水を入れた容器をおいて、湯気を立てて湿度を保つ。いわゆる加湿器の役目をするわけだが、それだけでなく、そのお湯でお茶をいれたりもした。エアコン生活となってしまった現在の我が家にはない光景だけれど、昔はその湯気で母が、ほどいて編み直す毛糸を伸ばしていたことなど思い出す。十二月、ストーブの上の大きいやかんの口から勢いよく出てきた湯気に、最後の一枚となったカレンダーがふわりと動いた、というのである。揺れし、は過去、厳密に過去回想だと考えると、そんなこともあったなあ、ということだろうか。終わろうとしている一年に馳せる思いと、遠くなってゆく昭和に馳せる思いが重なっている。今年最後の土曜日は朔にて月も見えませんが、みなさまよいお年を。俳誌「花鳥」(2007年3月号)所載。(今井肖子)


December 26122008

 数の子の減るたび夜を深くせり

                           星野高士

年、大皿に盛られた数の子が次第に減っていく。年賀の客が現れて歓談は深夜に及ぶ。数の子とともに正月も去っていく。年々、クリスマスや「新年」がきらいになる。さあ、祝えといわれて聖者の生誕を祝い、早朝、並んで神社の鐘を鳴らし、正月は朝から漫才だ。僕のような思いの人は多いのだろうと思うが、そういう発想自体が陳腐なのだろう。とりたてて言うほどのこともないとみんな黙して喧騒が過ぎるのを待っているのだ。葬式のように作法が多く考えるひまもないほど慌しいのは、遺されたものの悲しみを軽減するためだというのも定説。だとすると国民的行事はどういう思考を人にさせないように用意されたものなのか。庶民の鬱憤を解消させるガス抜きなのか。そう簡単にはガスは抜かれないぞ。そんなことを数の子を噛みながら深夜まで考えてみよう。『無尽蔵』(2006)所収。(今井 聖)


December 25122008

 ペンギンと空を見ていたクリスマス

                           塩見恵介

朝枕もとのプレゼントに歓声をあげた子供たちはどのくらいいるだろう。クリスマスは言うまでもなく世界中の子供たちが夜中にこっそりやってくるサンタさんを待つ日。わくわくと見えないものを「待つ」気持ちがこの句に込められている。ヨチヨチ歩きで駆けまわるペンギンは愛嬌があって可愛いが、好奇心が極めて強い動物だそうだ。時折3,4匹かたまって微動だにせずじっとしているが、あれは何を見ているのだろう。掲句のように、「空を見ていた」と言われてみれば飛べないペンギンが空の彼方からやってくるものをじっと待っているようにも思える。柵の向こうから眺める動物園の観客の視線と違い、作者はペンギンと肩を並べて空の向こうを眺めている。待っているのはトナカイに乗ってやってくるサンタさんか、降臨するキリストか。クリスマスは期待に胸ふくらませ何かがやって来るのを待つ日。ペンギンと並んで空を見上げる構図が童話の中の1シーンのようで、今までにない新鮮なクリスマスを描き出しているように思う。『泉こぽ』(2007)所収。(三宅やよい)




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