December 282008
差引けば仕合はせ残る年の暮
沢木五十八
本日の句を読んで、人というのはなんとも健気なものだと感じたのは、わたしだけでしょうか。それなりに幸せだったと、この一年の結果に納得したいと思っているわけです。もちろんだれに判定してもらうわけでもなく、問いかけているのも、やさしげに答えているのも、自分自身でしかありえません。経ってしまえば、一年はとても短く感じられはするものの、日々、さまざまなことに一生懸命に取り組んできた時間は、恐ろしいほどに長く、濃密なものです。つらかったことと、よかったと思えること、それを左右に積み上げて「はかり」で計れるわけのものではなく、所詮は来年へ向けて生きようとする勢いに役立てようとして、自分に問いかけているだけのことです。また、今は不幸せの部類に仕分けられた事柄も、将来大きな「仕合せ」に転じるかも知れず、一概に一年を「仕合せ」か「不幸せ」かで締めくくるのは、無理があるのかなとも、思います。ともかくも、人と比べてどうかではなく、作者はあくまでも自身の中での問題として考えているわけですから、詳しい事情はわかりませんが、「それでいいんじゃない」と、答えてあげたいと思うのです。『角川 俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)
December 272008
カレンダーふはりと揺れし湯気立てて
栗林眞知子
季題は湯気立(ゆげたて)。ストーブや火鉢の上に、やかんや鉄瓶など水を入れた容器をおいて、湯気を立てて湿度を保つ。いわゆる加湿器の役目をするわけだが、それだけでなく、そのお湯でお茶をいれたりもした。エアコン生活となってしまった現在の我が家にはない光景だけれど、昔はその湯気で母が、ほどいて編み直す毛糸を伸ばしていたことなど思い出す。十二月、ストーブの上の大きいやかんの口から勢いよく出てきた湯気に、最後の一枚となったカレンダーがふわりと動いた、というのである。揺れし、は過去、厳密に過去回想だと考えると、そんなこともあったなあ、ということだろうか。終わろうとしている一年に馳せる思いと、遠くなってゆく昭和に馳せる思いが重なっている。今年最後の土曜日は朔にて月も見えませんが、みなさまよいお年を。俳誌「花鳥」(2007年3月号)所載。(今井肖子)
December 262008
数の子の減るたび夜を深くせり
星野高士
新年、大皿に盛られた数の子が次第に減っていく。年賀の客が現れて歓談は深夜に及ぶ。数の子とともに正月も去っていく。年々、クリスマスや「新年」がきらいになる。さあ、祝えといわれて聖者の生誕を祝い、早朝、並んで神社の鐘を鳴らし、正月は朝から漫才だ。僕のような思いの人は多いのだろうと思うが、そういう発想自体が陳腐なのだろう。とりたてて言うほどのこともないとみんな黙して喧騒が過ぎるのを待っているのだ。葬式のように作法が多く考えるひまもないほど慌しいのは、遺されたものの悲しみを軽減するためだというのも定説。だとすると国民的行事はどういう思考を人にさせないように用意されたものなのか。庶民の鬱憤を解消させるガス抜きなのか。そう簡単にはガスは抜かれないぞ。そんなことを数の子を噛みながら深夜まで考えてみよう。『無尽蔵』(2006)所収。(今井 聖)
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