December 292008
五徳なるものが揃ひて村滅ぶ
福田 基
五 得(ごとく)はもう茶の道具くらいにしか使われない。昔はどこの家にもあって、その上に薬缶や鉄瓶を置いていたものだ。五徳というくらいだから、なにやらありがたい道具のように思えるが、なんのことはない。大昔のそれは輪を上にして使っており、「竈子(くどこ)」と呼ばれた。それが安土桃山期の茶道の発達とともに、それまでとは逆に爪を上にして使われるようになった。だから「くどこ」を逆にして「ごとく」と呼んだのだという。したがって「五徳」は当て字。仁・義・礼・智・信の五徳などとは、何の関係もないのである。句ではしかし、実際の道具としての五徳と観念的な五徳との両義がかけてある。村中、どの家にも五徳がある。すなわち、五つの徳目が全て揃っている。なのに、村は滅びつつある。それはすなわち、全てを備えるには至難の徳目が容易に揃ったことで、もはや村には求め極めるものが消失してしまい、逆に自壊の方向に向かっているということなのだ。何であっても、極まればあとは崩れるしかない。なんとも皮肉たっぷりの句だけれど、過疎地をこのように捉えた句はめずらしく、作者の哀感もよく伝わってくる。福田基は昭和八年生まれ、林田紀音夫直門。あとがきに「われ老いたり、心身とも老いたり」とあるのが、私などには身につまされる。『回帰回想』(2008)所収。(清水哲男)
『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます
|