アメフトは運動能力もさることながら頭の勝負。立命館大、おめでとう。(哲




2009ソスN1ソスソス4ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 0412009

 万歳やもどりは老いのはづかしく

                           加賀千代女

つの世も、歌と笑いは感性の先端を行くものであり、若い人の心を捉えてはなさないものです。我が家にも若い娘が二人いることもあって、最近はお笑いの番組がテレビに映っていることがしばしばあります。言葉への接近の仕方、ということでは確かに漫才に学ぶところは多く、時代そのものをからかう姿勢は、とても若い人にはかなわないと感心しながら、わたしも娘の後ろからテレビを見ています。この句の季語は「万歳」。新年を祝う歌舞の意味ですが、滑稽味を表してもいるその芸は、漫才の起源といってもよいのでしょう。「ピエロの涙」に言及するまでもなく、笑いの裏側には悲しみの跡がついているようです。人を笑わせた後の寂しさは、その対比がはっきりとしていて、見るものの胸を打つものがあります。面白おかしく演じたその帰り道に、芸の緊張から解かれた顔には、はっきりと老いの徴(しるし)が見られます。それを「はづかしい」と感じる心の動きを、この句は見事に表現しています。老いがはづかしいのはともかく、万歳といい、句といい、自分の表現物を人前にさらすことはたしかに、はづかしい行為です。でも、このはづかしさなくして、人の胸に届くものはできないのかなとも、思うのです。『角川 俳句大歳時記 新年』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


January 0312009

 三日はや木綿のやうな風とゐる

                           野木桃花

かに、年が改まったからといってすべてリセットできるわけではない。でも年末、あれこれ溜まったゴミを捨て、そちこち拭いたり磨いたりしていると、あ〜まことに不愉快、といったこびりつきが、うすくなっていくような感じがする。そうこうするうちに迎える元旦、いつもの窓から見える朝日を、初日として眺めながら、よし、と新たな気持ちにもなれる。そして正月三日。今年は明日が日曜なので、少し趣が違うむきも多いだろうけれど、さて正月気分も終わりだなという三日である。木綿のような風、というこの日常的でないちょっと不思議な表現、木綿の飾り気のなさと親しさによって、始まってゆく日常へすっと気持ちを送りこんでくれる。長期休暇を取るなどして、大きく気分転換を意識しなくても、正月という節目を利用して、自分の中のこもごもをうまく切り替え、いちはやく平常心で前を見ている作者であろう。『新日本大歳時記 新年』(2000・講談社)所載。(今井肖子)


January 0212009

 手を入れて水の厚しよ冬泉

                           小川軽舟

体に対してふつうは「厚し」とは言わない。「深し」なら言うけれど。水を固体のように見立てているところにこの句の感興はかかっている。思うにこれは近年の若手伝統派の俳人たちのひとつの流行である。長谷川櫂さんの「春の水とは濡れてゐるみづのこと」、田中裕明さんの「ひやひやと瀬にありし手をもちあるく」、大木あまりさんの「花びらをながして水のとどまれる」。水が濡れていたり、自分が自分の手を持ち歩いたり、水を主語とする擬人法を用いて上だけ流して下にとどまるという見立て。「寒雷」系でも平井照敏さんが、三十年ほど前からさかんに主客の錯綜や転倒を効果として使った。「山一つ夏鶯の声を出す」「薺咲く道は土橋を渡りけり」「秋山の退りつづけてゐたりけり」「野の川が翡翠を追ひとぶことも」等々。山が老鶯の声で鳴き、道が土橋を渡り、山が退きつづけ、川が翡翠を追う。その意図するところは、「もの」の持つ意味を、転倒させた関係を通して新しく再認識すること。五感を通しての直接把握を表現するための機智的試みとでも言おうか。『近所』(2001)所収。(今井 聖)




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