j句

January 0412009

 万歳やもどりは老いのはづかしく

                           加賀千代女

つの世も、歌と笑いは感性の先端を行くものであり、若い人の心を捉えてはなさないものです。我が家にも若い娘が二人いることもあって、最近はお笑いの番組がテレビに映っていることがしばしばあります。言葉への接近の仕方、ということでは確かに漫才に学ぶところは多く、時代そのものをからかう姿勢は、とても若い人にはかなわないと感心しながら、わたしも娘の後ろからテレビを見ています。この句の季語は「万歳」。新年を祝う歌舞の意味ですが、滑稽味を表してもいるその芸は、漫才の起源といってもよいのでしょう。「ピエロの涙」に言及するまでもなく、笑いの裏側には悲しみの跡がついているようです。人を笑わせた後の寂しさは、その対比がはっきりとしていて、見るものの胸を打つものがあります。面白おかしく演じたその帰り道に、芸の緊張から解かれた顔には、はっきりと老いの徴(しるし)が見られます。それを「はづかしい」と感じる心の動きを、この句は見事に表現しています。老いがはづかしいのはともかく、万歳といい、句といい、自分の表現物を人前にさらすことはたしかに、はづかしい行為です。でも、このはづかしさなくして、人の胸に届くものはできないのかなとも、思うのです。『角川 俳句大歳時記 新年』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


January 1112009

 ポケットの底に届きし初電話

                           酒井秀次

語は「初電話」、その年に初めて電話で交わす会話を意味しています。すでに新年も11日を過ぎてしまい、今頃初電話でもないだろうと言われそうですが、かくいうわたしは、友人の少なさのせいか、会社の内線以外の電話を今年はまだしていません。年初の電話ということですから、多くは、今年一年の変わらぬ友情を約するためのものと思われます。電話がポケットの底に届いたということは、携帯電話をポケットの中にでも入れていたのでしょう。「底に届く」という言葉は、どこか、郵便受けの底に小さな落下音をたてて落ちてきた封書を連想させます。まさか、電話の届いてくる音が聞こえてくるわけもなく、届くときにはいきなり着信音が鳴り出すだけのものです。それでもこの句を読んでいると、願いを込めてはるばる上空を飛んできた電波が、その人までようやくたどり着き、ポケットの中にストンと落ちてゆく音まで聞こえてきそうです。落ちてきたものは、年初の型どおりの挨拶だけではなく、受け取る人の気持ちを晴れやかな方向へ向けさせるような内容であってくれと、おせっかいながらも願わないではいられません。『角川 俳句大歳時記 新年』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


January 1812009

 春を待つ文を遣らねば文は来ず

                           上津原太希子

語は「春を待つ」。春を待ちわびるというのですから、依然、寒い日々をすごしているわけです。出勤の朝、ぬくぬくとした布団の中からいつまでも出られないのは、仕事のつらさのせいなのか、それとも部屋の寒さのせいなのか。どちらにしても片方だけでも早くとりのぞいてもらいたいものです。句の構造は明解です。「春を待つ」の「待つ」から、便りを待つせつない思いに発想をつなげています。作者が便りを待つ相手は、思いを寄せている異性なのでしょうか。ほんとは自分を思ってほしい、その確証が少しでもほしい。それでもやってこない手紙に、さらに思いはつのってゆきます。待っても来ない便りに、仕方なくこちらから思いを届けるしかないという状態のようです。たいていの恋愛には、双方の思いの深さに差があるもので、なかなかその差は埋まらないものです。昨今は手紙よりも、携帯電話のメールが使われるようになりました。こちらは手紙よりもずっと利便性がよく、しかしそのためにさらに思いは深みにはまる危険性があります。メールを送れば相手からの返事をひたすら待つことになり、返事が来たら来たで、すぐにその返事を送りたくなる。苦しみは永遠に続く、というわけです。恋愛に不慣れな方は、携帯メールには特にご注意を。『角川 俳句大歳時記 冬』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


January 2512009

 火事跡の貼り紙にある遠い町

                           林 菊枝

語は「火事」。こんなことまで季語になってしまうのかと、いささか驚きました。もちろん火事は一年中起きるもの。ただ、冬は暖房に火を使うことも多く、また、関東地方は特に乾燥していることもあって、火事が冬の季語になっているのは頷けます。火事で思い出すのは、子供のころのこと。ある夜、細い道を挟んで向かい側の家屋が全焼したことがありました。まさに我が家の目の前の三軒が、すさまじい炎を上空に舞い上げていました。空を見上げながらその赤色が、恐ろしくてならなかったことを今でも覚えています。さて、本日の句が目に留まったのは、「遠い町」の1語によります。遠い町の上に広がる空が、句のはるか向こうに見えてきそうです。たいへんな騒ぎだった火事の跡地に、棒杭が立てられ、その上に手書きの紙が貼られています。「ご迷惑をおかけしました。臨時の転居先は下記のようになっています。」とでも書いてあるのでしょうか。見れば転居先は、すぐには場所が頭に浮かんでこないほどの遠い町です。どんな理由によって家を燃やしてしまったのか。この家の住人に責任の一端でもあったのか。理由は定かではありませんが、「遠い町」へ行かなければならなかったということが、近所の人々への申し訳なさのようにも、読み取れます。『新日本大歳時記 冬』(1999・講談社)所載。(松下育男)


February 0122009

 一月二月丸暗記しています

                           阿部完市

いもので2009年も1月がすでに終わってしまい、あたりまえのことながら、切れ目もなしに2月がやってきました。ちょうどそんな時期に、1月2月が並んだこのような句に出会いました。とはいうものの、この句は決してあたりまえに出来上がっているわけではありません。いったい、「丸暗記」が1月2月とどう繋がっているのでしょうか。受験期の最後の追い込み勉強としての丸暗記がここに置かれていると、考えられないわけではありません。しかし、そのような詮索はなんの意味もないようです。特に、「しています」という言い方が、なんともとぼけた味を醸しています。この句が目に留まったのは、生真面目に書かれた多くの句の中にあって、身をずらすような書かれ方をしていたからなのです。句の内容よりも、創作の姿勢そのものが作品の魅力になっているという点では、作者の特異な才能を認めざるをえません。型を熟知しているものにしか、型を破ることは出来ないからです。思い出せば昨年の暮れ、明治大学の講堂で行われた世界の詩人が集まった朗読会で、この作者の朗読をじかに聴いたのでした。読まれてゆく句はどれも、意味の関節を次々にはずしてゆくような内容でした。朗読とは、もっともかけ離れた位置にある作品を、滔々と読み続ける姿に、ひたすら感心して聴いていたのでした。「俳句」(2009年1月号)所載。(松下育男)


February 0822009

 手袋は手のかたちゆゑ置き忘る

                           猪村直樹

の上ではもう春です。それはわかっているのですが、依然として風は冷たく、もう少し冬に、はみ出してもらっていてもよいでしょうか。今日の句の季語は「手袋」、まだ冬です。この句を読んで印象に残ったのは、脱いだそのままの手袋が、手の形のすがたで、テーブルの上に置いてあるという視覚的なものでした。手はまだ冷たく、かじかんでいるがゆえに、脱いだ手袋をすぐにたたむことが出来なかったのでしょう。あるいは、家に帰ったら、ただならぬ出来事がおきあがっていて、手袋などにかまっていられなかったのかもしれません。いったい、脱ぎ捨てられた手袋の形は、どんなふうだったのでしょうか。何かを掴まえようとするかのように、虚空へ差し伸べられていたのでしょうか。あるいはテーブルにうつむいて、疲れをとっている姿だったのでしょうか。さきほどまで、びっしりと人の手が入っていたところには、今は冬のつめたい空気が流れ込んでいます。ところで、読んでいてひどく気になったのが「ゆゑ」の一語でした。朝の通勤電車の中で、僕はこの「ゆゑ」の意味するところをずっと考えていたのですが、どうにもすっきりとした解釈には至りませんでした。自分の手なら、どこかに置き忘れることもたまにはあると、言っているのでしょうか。『俳句鑑賞450番勝負』(2007・文芸春秋)所載。(松下育男)


February 1522009

 春の宵レジに文庫の伏せてあり

                           清水哲男

日は清水さんの誕生日ということで、清水さんの句です。思い出せば昨年の今頃には、清水さんの古希をお祝いして後楽園でボウリング大会をしたのでした。幸いにもわたしは3位に入賞し、記念のメダルをいただきました。今もそのメダルは、大切に会社の引き出しにしまってあります。ところで、この句のポイントは、「春の宵」の一語と、そのあとに描かれている内容との、ちょっとした食い違いにあるのではないのでしょうか。というのも、「春の宵」といえば、思いつくのはロマンチックな思いであったり、センチメンタルな感情であったりするわけです。ところが、そんな当たり前な感じ方を、清水さんの感性は許すはずもなく、そこはそこ、読者を驚かすようなものを、きちんと差し出してくれるのです。その食い違いや驚かすものは、これ見よがしではなくて、あくまでも物静かで、自然な形でわたしたちに与えられるのです。それでいて、ああそうだな、そんなこともあるなという、合点(がてん)のゆく食い違いなのです。レジの上に、不安定な格好で伏せられた文庫本が、まざまざと目に見えるようです。その文庫本を手にする人の思いの揺れさえ、じかに感じられてくるから不思議です。なんとうまくこの世は、表現されてしまったものかと、思うわけです。『打つや太鼓』(2003)所収。(松下育男)


February 2222009

 春日や往来映ゆる海のへり

                           小杉余子

んなにすぐれた句に出会っても、読んですぐには、いったい自分がその句の、どのような点に感動したのかが、明確にはわかりません。その時の印象としては、ただひどく気になって仕方がない、というだけのことなのです。今日の句を読んだときにも、どうしてこの句が新鮮に感じたのかが、しばらくわかりませんでした。とにかく鮮やかなものが、こちらに押し寄せてきたのです。幾度も読み返しているうちに、自分の中の受け止め方が、少しずつ見えてきました。それはおそらく、視点が、陸地から海へ向かっているのではなく、逆方向に、つまりは海のほうから陸地を見下ろしているように感じたからなのです。その陸地は、断崖絶壁の手の届かないところにあるのではなく、手を伸ばせばすぐに触れられそうな、人々がいくらでも歩いている「往来」だというのです。「映ゆる」は、海の照り返しが光となって、往来を行き来する人々の顔を下から照らしているということでしょうか。人々の日常の、すぐ隣に非日常の海が迫っている。生きるとはそのようなことなのだと、美しく、言われているようです。『角川俳句大歳時記 春』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


March 0132009

 鳥の巣より高き人の巣留守勝ちに

                           金子兜太

語は「鳥の巣」、春です。命が産み出される場所が、そのまま季節に結びついているようです。作者は、散歩で通りすがった雑木林の中から、春の空を見上げてでもいるのでしょうか。数メートル先の空には、小さな鳥の巣が見えています。そしてその先に視線を伸ばせば、遠くには高層マンションが見えています。鳥の巣と、高層マンション。大きさも堅さも中に住むものも、全く違っているものを、同じものとして見据えたところに、この句のすぐれた視点があります。「人の巣」という言い方は、一見、それほど際立った表現とは思えません。それでも、こうして句の中に置かれてみると、思った以上に新鮮で、目を見開かせるものを持っています。どうしたらこんなふうに、効果的な言い回しが出来るのだろう。あるいは人とは違う見方というものは、どこまでが表現の中で許されてあるのだろう。そんなことをこの句は、考えさせてくれます。句は最後に、人の巣が「留守勝ち」であると、言っています。あんなに高いところに、人のいない空間がぽつんと置き去りにされている。確かに、鳥の巣よりもずっと深い寂しさが、こちらに押し寄せてきます。「俳句」(2009年2月号)所載。(松下育男)


March 0832009

 湯屋まではぬれて行きけり春の雪

                           小西来山

の気持ち、実にそうだなと、思うのです。これから歩いて行く先は、間違いなく全身をあたたかく濡らしてくれる場所なのだから、そこまでの道のりで、多少ぬれてしまってもかまわないわけです。というよりもむしろ、身体を冷やしておいたほうがさらにお湯の気持ちよさは増すに違いなく、まちがっても無粋な傘などをさす気にはならなかったのでしょう。また、手ぬぐいや風呂桶などを手に持った上で、さらに傘を差すことは、歩くのに不自由でもあり、これくらいの雪ならば、体の上に好きに降らせたまま気分よく歩いてゆきたいと思う気持ちもわかります。時間は夜ではなく、まだ日のあるうち、道の両側に広がる風景や、雪を降らせている雲をでも、ゆったりと眺めながら歩いているようです。日ごろの鬱屈はひとまず忘れることにして、頭の中ではすでに服をすべて脱ぎ去り、やわらかな湯気の立ったお湯の表面に、つま先を差し入れているところなのかもしれません。句のはじめから最後まで、なんとも気持ちのよい出来上がりになっています。『角川俳句大歳時記 春』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


March 1532009

 三月の風人買いのやさしさで

                           穴井 太

うまでもなく「三月の風」と「やさしさ」は素直に結びつきます。みなに待たれている季節を運んでくるものとして、この組み合わせになんら問題はありません。しかし、それだけではもちろん人の心を打つ句にはなりません。だれでもがあたりまえに頷いてしまうものではだめなのです。いったんは「あれ?」と思わせて、それからのちに、「ああそうなのか」と納得させてくれるもの。そんな都合のよい表現はあるだろうかと、作者は頭を悩ませているのです。で、行き着いたところが 「人買い」だったわけです。たしかに人買いという、おそろしい言葉に優しさは結びつきません。しかし、よく考えてみれば、人をだますための気味の悪い猫なで声は、やさしいといえば言えなくもなく、言うとおりにすれば、一生きれいな着物を着て、おいしいものが食べられるのだと、なんだか耳をかすめる風がささやいているようです。この季節の風を全身で受けとめ、ならばこの風に買われてみようかと、まさか思いはしないけれども。「俳句界」(2009年3月号)所載。(松下育男)


March 2232009

 控除欄に百一歳の母納税期

                           佐滝幻太

ょうど先週の今頃は、いやいやながらも台所のテーブルに向かって確定申告の計算を始めていました。計算自体はそれほどに面倒なものではなく、小一時間も集中すれば終わってしまう作業ではありますが、なかなかやり始めようという気が起きません。それでも用紙に向かい、要求された欄にひとつひとつ数字を埋めてゆけば、年に一度のことゆえ、それなりの感興は湧いてきます。中でも「控除欄」は、納税者のかすかに抵抗の出来る、あるいは唯一、優しいまなざしの感じられる場所でもあります。「配偶者控除」に数字を入れれば、わたしには人生をともにしてくれる人がいたのだと改めて感謝し、「扶養控除」に数字を入れれば、わたしに頼って生きているものがコノヨに何人かはいるのだと、励まされもするわけです。今日の句も、その扶養控除を詠っており、ここではなんといっても「百一歳」の文字が光っています。扶養している、というよりも百一歳の身は、老人扶養親族として納税者の税額を立派に減らしてくれており、助けられているのはむしろ扶養する側であることを実感するわけです。それはおそらく、税金だけの問題ではなく、生きてゆく日々に、百一歳の母親から与えられるものは数多くあるはずなのであり、と、しかしこんな理屈は、暖かな春の日差しに日向ぼっこをしている百一歳の母親には、どうでもよいことなのでしょう。「俳句界」(2009年3月号)所載。(松下育男)


March 2932009

 同じ顔ならぶ個展や春の雨

                           片山由美子

の句に詠まれている顔は、絵の中の顔ではなく、会場に来ている見学者の顔なのだろうと思います。個展会場の壁に整然と掛けられた絵、それぞれに、ひとつずつの顔が相対しており、その顔がどれも似ているというのです。いえ、同じだと言うのです。むろん、人の顔そのもののつくりは違うものの、雨の中をはるばるこの会場へ来て、扉を開け、絵を観賞するために視線を向けている姿勢と心持は、それまでの時間がどんなに異なっていても、同じところに落ち着いてしまうもののようです。あるいは、描かれた絵の力によって、どの顔も、ほほえましい笑顔や、引き締まったまなざしを持つようにさせられているのかもしれません。個展というのですから、広い敷地の美術館ではなく、銀座の裏通りに面した、こじんまりとした画廊ででもあるのでしょう。窓の外には止むことなく、静かに雨が降り続いています。見れば春の宵を、どの一粒も同じ顔をした雨が並んで落ちています。見るものと見られるものの関係の美しさを、やわらかく詠っています。「俳句」(2009年4月号)所載。(松下育男)


April 0542009

 小指より開け子が見する桜貝

                           中山フジ江

語は「桜貝」、春です。歳時記によると、「古くは花貝といわれた」とあります。その名を見ればおのずと、昔から人にやさしく見つめられつづけてきたのだということがわかります。身をかがめて拾われて、柔らかな手のひらに乗せられ、美しい美しいと愛でられてきたのでしょう。その思いそのままに、本日の句はひそやかで、小さくて、いとしい感情に包まれています。包んでいるのは子供の手。ぷっくりと、まだ赤ん坊のころの肉を付けたままのようです。「お母さん、いいものを見せてあげる」と、差し出された腕の先はしっかりと握られ、何が出てくるのかと被せる顔の前で、おもむろに小さな指から開かれてゆきます。小指が伸び、薬指が伸びた頃には、すでに貝の半身が色あざやかに目の前に現れ、見れば子供の爪のようにかわいらしい桜貝が出てきています。読む人をどこまでも優しい気持ちに導いてくれる、あたたかな春の句になっています。「俳句」(2009年4月号)所載。(松下育男)


April 1242009

 ふらここを降り正夢を見失う

                           塩野谷仁

語は「ふらここ」、春です。要はブランコのことですが、俳句を読んでいると、日常では決して使わない、俳句だけの世界で生きている語彙に出くわします。たとえば蛍のことを、「ほうたる」とも言うようですが、はじめてそれを見たときには、なんとも不可思議な感覚を持ちました。「ふらここ」という語も、意味がわかった後も、どうしても別のものを連想してしまいます。平安時代から使われていた和語だと言われても、いったんそうなってしまうと、なかなかそのものが頭から離れてくれないのです。それはともかく、今日の句です。一番目立っているのは「正夢」の一語でしょうか。言うまでもなく、将来現実になる夢のことです。これだけで、句全体を覆うだけの抒情が生み出されています。ところが作者は、それをもう一ひねりして、「正夢を見失う」としています。それによって読者は、想像をたくましくせざるを得なくなります。ブランコに乗っている間は、しっかりと胸に抱えていた正夢が、地上に降りた途端に失われてしまう。まるで現実と夢の境に綱をたらして、ひとしきり揺れてきたかのようです。「俳句」(2009年4月号)所載。(松下育男)


April 1942009

 窓ぎわの花に眠気の容疑あり

                           村井和一

とえば人前でスピーチをするときには、下手なジョークを入れずに、場に合った内容の話を、ひたすらまじめに伝えることに終始したほうが、間違いがありません。句を読む時にも、それと同じことが言えるのではないでしょうか。まじめに詠まれた句は、その句がどのように読者に受けとめられるかということに、それほど神経をつかう必要はありません。しかし、多少でも「おふざけ」の要素が入った句は、かなり慎重に読者の受け止めかたを見極めておかないと、とんでもないことになります。本日の句も、「容疑あり」の一語で、大きな危険を冒しています。しかし結果としては、とんでもないことにはならなかったようです。のんびりとした休日の午後、窓際の椅子に座って、好きな音楽でも聴いていたのでしょうか。そのうちにうつらうつらと、心地よい眠気が襲ってきています。この眠気はほかでもないこの花のせいではないかと、他愛のない言いがかりを付けているのです。気がつけば「容疑あり」の一語は、「窓ぎわ」や「花」に負けないほどに、春の明るさを伝えてくれています。「俳句界」(2009年4月号)所載。(松下育男)


April 2642009

 うらやまし思ひ切る時猫の恋

                           越智越人

念ながらわたしは猫を飼ったことがないので、猫の恋なるものが具体的にどのようなものなのかを知りません。ただ、この句を読む限りは、ずいぶんあっさりしたものなのかなと、想像はできます。句の意味するところは単純です。猫のように、わたしもこの恋をすっぱりとあきらめたいものだ、それが出来ないからこんなに胸のうちが苦しい、苦しくて仕方がない、ああ、猫のように簡単に、あの人をあきらめることができないものか、と、そんな意味なのでしょう。ただ、言うまでもなく「猫の恋」の「恋」という言葉の使い方が、人の「恋」とはもともと意味が違うわけで、猫は夜毎枕を濡らして特定の人を思い悩んだり、メールを送って当たりをつけたり、面倒なかけひきをしたりはしません。生殖の欲求と、恋とが、無縁であるとまでは言わないまでも、やはり心情的には両者の間にはかなりの隔たりがあるわけです。それをひとつの言葉で意図的に表してしまうから、このような句が出来上がってくるわけです。とはいうものの、句全体がやけにやるせない雰囲気を漂わせているのは、だれしもこんな思いに、一度は苦しんだことがあるからなのでしょう。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)


May 0352009

 日をたたむ蝶の翅やくれの鐘

                           望月宋屋

は「つばさ」と読みます。句を読んでまず目に付いたのが「たたむ」の文字でした。今更とは思うものの、手元の辞書を引けば「たたむ」の意味は、「広げてある物を折り返して重ねる。折って小さくまとめる。」とあります、なんだか辞書の説明文がそのまま詩になってしまいそうな、詩歌向きのきれいな語です。望月宋屋(そうおく)の生きていた江戸期にも、「たたむ」は今のようなひそやかさをたたえた語だったのでしょうか。少なくともこの句に使われている様子から想像するに、数百年の時の流れは、語の姿になんら影響を与えることはなかったようです。「日をたたむ」の「たたむ」は「店をたたむ」のように「やめてしまう」の意味。もちろん「たたむ」は「蝶の翅をたたむ」ことにも通じていて、こちらは「すぼめる」の意味でしょうか。さらにくれの鐘の音が「日をたたむ」にもかかってきて、きれいな言葉たちは句の中で、何重にも手をつなぎあっています。そうそう、「心にたたむ」という言葉もありました。もちろん意味は、「好きな人を心の中に秘めておく」という意味。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)


May 1052009

 女學院前にて揚羽見失ふ

                           浅井一志

語は「揚羽」、夏です。揚羽蝶の大ぶりな美しさは、たしかに夏の季節にふさわしく感じられます。この句に惹かれたのは、なんと言っても「女學院」の一語ゆえでしょうか。目の前をさきほどから、まるで自分の行く先について行くように、派手な柄の蝶が舞っています。その姿に見とれながら歩いていたのが、つい見失ってしまい、気がつけばそこは女学院の前だったというわけです。生の真っ只中での、揚羽蝶と女学生のいきいきとした美しさが、見事に競い合っています。たしかに見失った場所が別のところだったなら、このようなくっきりと鮮やかな句にはならなかったでしょう。ペギー葉山の歌を持ち出すまでもなく、学生の日々の出来事や友人を思い出せば、いつも同じ場所の切なさにたどりつきます。その心情はまさに、いつまでもまとわりつく蝶のようでもあり、目で追い続けていたのは蝶の姿と、遠く懐かしい日々だったのです。「俳句」(2009年4月号)所載。(松下育男)


May 1752009

 大の字に寝て涼しさよ淋しさよ

                           小林一茶

茶の句はなぜこれほどわかりやすいのかと、あらためて思います。変な言い方ですが、どうもこれは普通のわかりやすさではなくて、異常なわかりやすさなのです。わかりやすさも極めれば、感動につながるようなのです。ずるいわかりやすさなのかもしれません。「淋しさよ」と、直接詠っています。いったい一茶はどれだけ淋しいといえば気がすむのかと、文句を付けたくなりますが、なぜか納得させられてしまうのです。体の部位や姿勢が、悲しみや淋しさに結びつくことは、だれでもが知っています。なぜなら悲しみや淋しさを感じるのは、ほかでもない自分の体だから。この句では姿勢(大の字)を涼しさに結び付けて、さらに付け加えるようにして淋しさに付けています。淋しいとき人はどうするだろう。むしろ身をかがめて膝を抱えるものではないのか、といったんは思いはするものの、いえそれほどに単純なものではなく、身を広げても、広がりの分だけの淋しさを、ちゃんと与えられてしまうようです。『新訂俳句シリーズ・人と作品 小林一茶』』(1980・桜楓社)所収。(松下育男)


May 2452009

 月に柄をさしたらばよき団扇かな

                           山崎宗鑑

崎宗鑑は戦国時代の連歌師・俳諧作者です。生計は主に「書」で立てていたということです。今日の句は、読んでいただければわかる通り、内容はしょうもないといえば確かにしょうもない。月に柄(え)を付ければ団扇(うちわ)のようだ、この暑い夜に涼やかな風を送ってくれないものか、とでもいう内容でしょうか。だれしも月を見上げて、ちょっと考えれば、似たような発想はいくらでも出てきます。串をさせば団子にも例えられ、障子にあけた覗き窓にも例えられる。今なら「子供の詩」にでも出てきそうな、単純で素朴な例えです。でも、そう言ってしまっては、宗鑑にも、今の子供にもたいへん失礼にあたるかもしれません。どれほど高邁な文学の発想であれ、つきつめれば月を団扇に見たてたものと、さほどの違いがあるわけではありません。珍しい発想ではないけれども、いえ、ありふれているからこそ個人にすっと入ってくるのです。どうしてこんなものに惹かれるのかという疑問をもちつつも、600年も昔に考えられたものからさほどに進歩していない自身の感性を、いとおしくも感じるわけです。卑俗に徹し、ともかく威張っていないところが、とても好ましく。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)


May 3152009

 物申の声に物着る暑さかな

                           横井也有

申(ものもう)と読みます。今なら「ごめんください」とでもいうところでしょうか。いえ、今なら呼び鈴のピンポンなのでしょう。マンション暮らしの長い私には、人が声をあげて訪ねてくる場面には、ほとんど出くわしません。子供たちが小さな頃でさえ、「遊びましょ」という呼びかけを、聞いたことがありません。訪ねてきた人は、子供であろうと大人であろうと、いつも同じ大きさの「ピンポン」です。そこには特段の思い入れが入る余地はありません。この句を読んで思ったのは、「普段着」のことでした。昔はたしかに、家の中にいるときには夏でなくてもひどい格好をしていました。国ぜんたいが貧しかった頃ですから、子供だったわたしはそれほど気にしていませんでしたが、思い出せばいつも同じの、きたない服を着ていました。夏はもちろん冷房などはなく、この句にあるように、暑さに耐えるためには服を脱ぐしかありませんでした。今は真夏でも、人が訪ねてくればともかく、すぐに会える姿をしています。それがあたりまえのことではなかったのだと、この句はあらためて思い出させてくれます。一瞬の動作と、時代を的確に描ききっています。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)


June 0762009

 酒を煮る家の女房ちよとほれた

                           与謝蕪村

語は「酒を煮る」、夏です。聞きなれない言葉ですが、江戸時代には酒を煮たようです。殺菌のためでしょうか。おそらく蔵出しの日には、女将が道行く人にお酒を振舞ったのでしょう。この句、どう考えても空想で書いたとは思えず、あるいはわざわざ空想で書くほどの内容でもなく、作者自身の体験をそのまま詠んだとしか思われません。みょうに実感があります。深みにはまってしまうのではなく、女性を見て、ああきれいな人だなという程度の、罪のない賛美のこころがよく描かれています。まさに、酒に酔えば美のハードルは若干低くもなっており、軽く酔ったよい気分で、女性に心が向かう姿が素直に伝わってきます。「ちよとほれた」は、すでに酒と恋に酔ってしまった人の、箍(たが)の外れた言い回しになっています。ともかく、こんなふうに浮かれている作者の姿が、なんだかとても身近に感じられ、読者は蕪村の句に、ちょっとならずも惚れなおしてしまいます。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)


June 1462009

 家は皆海に向ひて夏の月

                           正岡子規

うなのか、と思います。たしかに家にも正面があるのだと、あらためて気づかせてくれます。海に向かって表側を、意思を持ってさらしているようです。扉も窓も、疑うことなくそうしています。一列に並んだ同じような大きさの家々の姿が、目に見えるようです。この句に惹かれたのは、ものを創ろうとする強引な作為が、見えなかったからです。家も、海も、月も、静かに句に導かれ、収まるところに収まっています。作り上げようとするこころざしは、それをあからさまに悟られてはならなのだと、この句は教えてくれているようです。家々が海に向かっているのは、海と対峙するためではなく、生活のほとんどが海との関わりから成り立っているためなのでしょう。朝起きればあたりまえのように海へ向かい、日の入りとともに海から帰ってくる。単純ではあるけれども、生きることの厳かさを、その往復に感じることが出来ます。梅雨の間の月が、そんな人々の営みを、さらに明らかに照らしています。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)


June 2162009

 甚平ややがての日まで腕時計

                           遠藤梧逸

語は「甚平」、夏です。言葉としては知っており、もちろんどんなものかも承知していますが、持ってはいません。人間ドックに行ったときに、似たようなものを着たことがあるだけです。たぶん一生、着ることはありません。特に甚平を毛嫌いする理由があるわけではありません。しかし、全体から感じられる力の抜け方に、どうも違和を感じるのです。そんなに無理してリラックスなどしたくないと、思ってしまうのです。今日の句の中で甚平を着ている人も、だいぶ力が抜けています。おそらく老人です。若い頃にさんざん緊張感に満ちた日々をすごした後に、恩寵のように与えられたおだやかな老後を過ごしているようです。腕時計をしているから、というわけではないけれども、その穏やかな日々にも、時は確実に刻まれ、ゆくゆくは「やがての日」にたどり着きます。この句、読み終えた後でちょっとつらくもなります。「甚平」というよりも、残る歳月をゆったりと羽織っている、そんな感じがしてきます。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)


June 2862009

 蠅とんでくるや箪笥の角よけて

                           京極杞陽

語は「蝿」、夏です。そう言えば昔は、蝿と共に生きていたなあと思い出します。飴色の蝿取紙は、いつも部屋の電気のスイッチの紐に結ばれていて、吹く風に優雅に揺れていました。新しいものと取り替えるときに、要領が悪くて服にべたりとついてしまうこともありました。そんな経験、もうすることはないのだなと思えば、妙な寂しささえ感じます。テレビでたまに、顔に何匹もの蝿をたからせて平然と遊んでいるよその国の子供を見るにつけ、あんなふうに自分もあったのだと、あらためて思い出しもするわけです。句は、そんな蝿の飛んでいるところを目で追っています。勢いよく飛んできた蝿が、箪笥の角にぶつかる寸前に身をよけて、別方向へ飛んでゆきます。蝿にも立派な目があるのだから、当たり前といえばあたりまえではありますが、「よけて」の一語が、ひそやかに身を斜めに傾ける人の姿と、重なってきます。蝿というもの、どんな意識を持って、どこまでこの世をわかって飛んでいるのかと、つい余計なことを考えてしまいます。『日本名句集成』(1991・學燈社)所載。(松下育男)




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