昨年のつづきの日常が戻ってきます。双六の一回休みのようだった正月。(哲




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January 0512009

 仕事始のスイッチ祷るが如く入る

                           啄 光影

事始め。この不況下だから、今日から通常業務とする会社が多いかもしれない。私が二十代のサラリーマンだった頃は、ずいぶん暢気なものだった。定時までに出勤はするが、朝一番に社長の年頭の挨拶があり、終わると酒が出た。仕事熱心な者は、それでもあちこちに新年の挨拶の電話をかけたり、年始回りをやったりしていたけれど、たいがいは飲みながらの雑談に興じたものだった。あとは三々五々と流れ解散である。なかにはこの状態を見越して計画的に欠勤する人もいたくらいだ。平井照敏によれば、昔は大工は鉋だけ研ぎ、農家は藁一束だけ打ち、きこりは鋸の目立てだけしたそうである。掲句はいつごろの句か知らないが、昔の句だとすると、工場の機械の点検だけの「仕事始め」と受け取れる。日頃調子の良くない機械なのだろう。明日からの本格的な仕事に備えて、正月明けくらいはちゃんと動いてくれよと、祷(いの)るような思いでスイッチを入れている図だ。そしておそらく、試運転は成功だった。安堵した作者の顔が見えるようだ。今日は、同じような思いで会社のパソコンのスイッチを入れる人も、きっといるはずである。『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)所載。(清水哲男)


January 0412009

 万歳やもどりは老いのはづかしく

                           加賀千代女

つの世も、歌と笑いは感性の先端を行くものであり、若い人の心を捉えてはなさないものです。我が家にも若い娘が二人いることもあって、最近はお笑いの番組がテレビに映っていることがしばしばあります。言葉への接近の仕方、ということでは確かに漫才に学ぶところは多く、時代そのものをからかう姿勢は、とても若い人にはかなわないと感心しながら、わたしも娘の後ろからテレビを見ています。この句の季語は「万歳」。新年を祝う歌舞の意味ですが、滑稽味を表してもいるその芸は、漫才の起源といってもよいのでしょう。「ピエロの涙」に言及するまでもなく、笑いの裏側には悲しみの跡がついているようです。人を笑わせた後の寂しさは、その対比がはっきりとしていて、見るものの胸を打つものがあります。面白おかしく演じたその帰り道に、芸の緊張から解かれた顔には、はっきりと老いの徴(しるし)が見られます。それを「はづかしい」と感じる心の動きを、この句は見事に表現しています。老いがはづかしいのはともかく、万歳といい、句といい、自分の表現物を人前にさらすことはたしかに、はづかしい行為です。でも、このはづかしさなくして、人の胸に届くものはできないのかなとも、思うのです。『角川 俳句大歳時記 新年』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


January 0312009

 三日はや木綿のやうな風とゐる

                           野木桃花

かに、年が改まったからといってすべてリセットできるわけではない。でも年末、あれこれ溜まったゴミを捨て、そちこち拭いたり磨いたりしていると、あ〜まことに不愉快、といったこびりつきが、うすくなっていくような感じがする。そうこうするうちに迎える元旦、いつもの窓から見える朝日を、初日として眺めながら、よし、と新たな気持ちにもなれる。そして正月三日。今年は明日が日曜なので、少し趣が違うむきも多いだろうけれど、さて正月気分も終わりだなという三日である。木綿のような風、というこの日常的でないちょっと不思議な表現、木綿の飾り気のなさと親しさによって、始まってゆく日常へすっと気持ちを送りこんでくれる。長期休暇を取るなどして、大きく気分転換を意識しなくても、正月という節目を利用して、自分の中のこもごもをうまく切り替え、いちはやく平常心で前を見ている作者であろう。『新日本大歳時記 新年』(2000・講談社)所載。(今井肖子)




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