Nj句

January 0512009

 仕事始のスイッチ祷るが如く入る

                           啄 光影

事始め。この不況下だから、今日から通常業務とする会社が多いかもしれない。私が二十代のサラリーマンだった頃は、ずいぶん暢気なものだった。定時までに出勤はするが、朝一番に社長の年頭の挨拶があり、終わると酒が出た。仕事熱心な者は、それでもあちこちに新年の挨拶の電話をかけたり、年始回りをやったりしていたけれど、たいがいは飲みながらの雑談に興じたものだった。あとは三々五々と流れ解散である。なかにはこの状態を見越して計画的に欠勤する人もいたくらいだ。平井照敏によれば、昔は大工は鉋だけ研ぎ、農家は藁一束だけ打ち、きこりは鋸の目立てだけしたそうである。掲句はいつごろの句か知らないが、昔の句だとすると、工場の機械の点検だけの「仕事始め」と受け取れる。日頃調子の良くない機械なのだろう。明日からの本格的な仕事に備えて、正月明けくらいはちゃんと動いてくれよと、祷(いの)るような思いでスイッチを入れている図だ。そしておそらく、試運転は成功だった。安堵した作者の顔が見えるようだ。今日は、同じような思いで会社のパソコンのスイッチを入れる人も、きっといるはずである。『新歳時記・新年』(1990・河出文庫)所載。(清水哲男)


January 1212009

 成人の日ひかる唇イエスと言う

                           山口可久美

者自身の「成人の日」ではないだろう。我が子の式典に参列したのか、あるいは役目上での出席か。「イエス」はおそらく、新成人の若者がこの日の誓いの言葉か何かにいっせいに和した様子だと思われる。「ひかる唇」が効いている。べつに唇がひかって見えたわけではないけれど、そのように感じられたということだ。つまり「ひかる唇」という表現には、作者の若さへの憧憬を秘められているのだ。異口同音に「イエス」と言える若さの素朴は、作者が失って久しいものなのだろう。若いって、いいなあ……。私なども年齢を重ねるにつれて、この思いが強くなってきた。しかし一方で、自分が若かった頃を思い出すと、そう簡単に「イエス」などとは言えなくて、いつも「ノー」が先行していたのだった。自宅から歩いて五分で行ける公民館で催された式典にも、意識的に欠席した。でもそんな若い私を見ていた年配の人がいたとしたら、やはり私の若さを眩しく感じたには違いない。人生は順繰りだ。いまは素直に、自信の若さの生意気を懐しいなと思えるようになった。『現代俳句歳時記・冬 新年』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


January 1912009

 餅切てゐるらし遠のく思ひのよろし

                           河東碧梧桐

を切る音を久しく聞かない。今はスーパーで、手ごろな大きさに切ってある餅を売っていたりする。といって、掲句の「餅切る」は、雑煮や汁粉のために少量を切っているのではないだろう。昔は正月に入ってからもう一度餅を搗き、保存食として「かき餅」にしたものだ。箱状の容器に薄く伸べた餅を、包丁で細く短冊状に切ってゆく。たくさん切るのだから、この単純作業には手間がかかる。面白い作業ではない。厨のほうから、そういうふうにして餅を切る音というか気配が伝わってきた。切っているのは、おそらく作者の妻だろう。その人は、何か深刻な「思ひ」を抱えているのだ。さきほど、聞かされたばかりである。いかし、しばらく静かだった厨から餅を切る音がしはじめた。そこで、作者がようやくほっとしている図だ。餅を切るという単純作業に入ったということは、その間だけでも「思ひ」は遠のくはずだからである。でも、この「よろし」は作者自身の自己納得なのであって、切っている当人の心持ちは「よろし」かどうかはわからない。こうした自己納得は日常的によく起きる心象で、こんな気持ちを繰り返し育てながら、誰もが生きている。大正六年の作。冬の句だろうが、とりあえず無季句に分類しておく。短詩人連盟刊『河東碧梧桐全集・第一巻』(2001)所収。(清水哲男)


January 2612009

 寒柝のはじめの一打橋の上

                           本宮哲郎

語は「寒柝(かんたく)」で冬、「火の番」に分類。火事の多い冬季には火の用心のために夜回りをしたものだが、その際の拍子木が「寒柝」だ。いまの東京などではすっかり廃れてしまったこの風習だが、まだ健在のところもあるようだ。掲句、一読してすぐに、芝居の一場面の印象を受けた。いわゆる「チョーンと柝(き)が入る」シーンである。すこぶる格好がよろしい。だが、句に詠まれているのは現実だ。いっしょに回る人以外には、真っ暗闇のなか、観客どころか人っ子一人いやしない。だから、ことさらに意識して橋の上から拍子木を叩きはじめることもないのであるが、そこはそれ、これから表で大きな音を出し、周辺の人々の日常世界を破るのであるからして、何らかのけじめをつけておいたほうがよい。そして同時に、しばし非日常を演じる自身への景気づけの意味からも、橋という絵になりそうな場所からはじめたというわけだろう。こういう時、ただ何となく打ちはじめ、何となく終わるわけにはいかないのが人情というものだ。観客など一人もいなくても、夜回りをする人の気分は、ほとんど役者のようにたかぶってもいるのだと思う。それにしても二度と聞けないだろが、寒夜ふとんの中にいて聞こえてきた「ヒノヨージン……」の声と拍子木の音。懐しいなあ。回っていた人には申し訳ないけれど、私には冬の風物詩なのであった。「俳句界」(2009年2月号)所載。(清水哲男)


February 0222009

 罵声もろとも鉄剪り冬は意地で越す

                           安藤しげる

ょうど半世紀前の作。当時の作者は二十代半ばで、日本鋼管鶴見製鉄所で働いていた。まだま敗戦の傷跡が残り、この国は貧しかった。労働条件も劣悪であったに違いない。加えて、作者は労組の中央闘争委員であったから、当然のように会社からは睨まれていただろう。上司の理不尽な「罵声」も飛んでくる。しかし、そこでかっとなって反抗したらお終いだ。湧き上がる憤怒の思いを、鉄を剪る作業に向けるしかなかった。こうなってくると、働きつづけるためにはもはや「意地」しかないのである。叩きつけるような句から見えてくるのは、当時の作者の姿ばかりではなく、作者の仲間たちや多くの工場労働者の生き方である。その頃の私は、父が勤めていた花火工場の寮にいたので、いかに工場での仕事が辛いかは、少しくらいはわかっていた。逃げ場など、ない。喧嘩して止めれば、路頭に迷うだけなのである。その意味では、現代と状況が似ている。いまは派遣社員の扱いがクローズアップされているけれど、どんな時代にも、資本のあがきは弱者に襲いかかるものなのだ。ただ現在、人々の表現に、往時に言われたような社会性俳句の片鱗すら見えてこないのが、とても不気味である。いつしか個々人の憤怒の思いは、社会的に拡散されるような仕組みが作られてしまったということだろう。いまこそ叩きつけるような表現があってしかるべきなのに、みんな黙っている。職場俳句すら、ほとんど詠まれない。みんながみんな利口なのか、馬鹿なのか。掲句を含む句集を読んでいて、そんなことを考えさせられた。『胸に東風』(2005)所収。(清水哲男)


February 0922009

 空缶を蹴つて二月は過ぎやすし

                           林十九楼

の道だろう。落ちていた空缶を、たわむれに蹴ってみた。缶は寒い舗装路に乾いた音を立てて、道の端まで転がってゆく。それだけのことでしかない。が、路上でのこのような小さなアクションは、当人の気持ちに、それまでにはなかった微妙な変化をもたらすものだ。一言でいえば、故無き寂寞感のような感情がわいてくる。何かむなしい、何かせつない。それがちらりとにせよ、来し方の何かにつながって、より淋しくなってくる。作者は、今年で九十歳。つながった過去の何かがなんであるにせよ、同時に感じるのは時の移り行きの早さであろう。青春期も中年期も、あっという間に過ぎてしまった。それが寂寥の思いをいっそう増幅させ、そしてこのそれでなくとも短い二月もまた、これまでと同様に瞬く間に過ぎてしまうであろうことに思いが至るのだ。北村太郎の詩に「二月は罐をける小さな靴」というフレーズがある。またフェリーニの自伝的映画『青春群像』では、田舎町の寒い夜中の舗道で、酔っぱらったろくでもない五人の若者たちが、空缶を蹴りあうシーンが少し出てくる。缶を蹴ることから何かの感情がわいてくるのは、どうやら寒い季節が似つかわしいようだ。『二十年』(2009)所収。(清水哲男)


February 1622009

 立つ人に手を貸せば春来たるなり

                           橋本輝久

るに見かねて手を貸したのではない。あるいは、常日ごろからその人の身体が不自由なことを意識していたからでもない。何かの会合でたまたまその人の隣りに居合わせ、さて散会となったときに、いかにも立ちにくそうにしている様子に気がついて、自然にすっと手を添えたということだろう。立ち上がったその人は微笑しつつ会釈をし、作者も「いえ……」と呟いて軽く会釈を返した。それだけのことであり、日常によくあるふるまいであり光景である。お互いに、すぐに忘れてしまうような交感だ。しかし、その交感のほんの一瞬に、二人の間には微妙なぬくもりのような感情が通いあう。この感じは、むろん周囲にいる人にはわからない。その微妙な交感の相をつかまえて、作者はそれを「春」と捉えた。暦の上では「春」であっても、これから出て行く表はまだ寒い。が、たとえ一瞬にせよ、ぬくもった心で見る外界は、確実に「春来たる」と告げているかのようだ。ここで「春」は、その自然的実相を作者のみに大きく開いたのだと言えるだろう。かくして、季語「春」は動かない。『殘心』(2009)所収。(清水哲男)


February 2322009

 春浅し猫が好まぬ女客

                           川久保亮

ってきた女客を見て、部屋の隅にすっとんで逃げたのか、あるいは毛を逆立てて威嚇の挙に出たのか。猫の生態についてはよく知らないが、猫好きな人かどうかが分るのだという。子供の頃に一度だけ飼った経験から言えば、そのようなことはありそうだ。来客の折りに、この句のようにまったく寄りつこうとしないときもあるし、すぐになついてしまい、図々しくもちゃつかり客の膝の上で居眠りをはじめることもあった。猫が客に寄りつこうが寄りつくまいが、どうということでもないようだけれど、あれで案外ホスト側は神経を使うものなのだ。人見知りの赤ん坊が、客の顔を見て火がついたように泣き出すことがある。これに似た神経の負担になる。その場を取り繕うのに、いささかしどろもどろ気味の言葉を発したりしてしまう。更に作者の心情に踏み込めば、猫と同じように、どこかでこの女客に親しみを感じていないフシもうかがえる。窓から見える表の陽光はすっかり春なのではあるが、しかしまだそれは冷気を含んでいる。風も荒い。そんな春浅き日の様子に、猫の不機嫌な態度と作者の戸惑いとがぴたりと重なった。『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


March 0232009

 花冷の水が繩綯ふ川の中

                           真鍋呉夫

京辺りでは、今年の桜の開花は早いそうだ。とはいえまだ少し先だけれど、早咲きを願ってこの句を紹介する。季語は「花冷(え)」で、桜は咲いたのに、どうかすると冷え込むことがあるが、そのころの季感を言う。桜の樹は川べりに植えられることも多いので、このときの作者はちょっと川端で花見でもと洒落込んだのだろうか。しかし、あいにくの冷え込みだ。襟を掻き合わせるようにして、どこまでも白くぼおっとつづく桜並木を見ているうちに、自然に川の水に目が移った。桜の花はいわば幻想的な景観だが、川の水はいつ見ても現実そのものだから、桜を眺めていたまなざしが、ふと我に返ったのである。むろん大気の冷えが、そうさせたのだ。こういうときの現実は強い。普段なら気にもしない水の流れに、作者の目はおのずから吸い寄せられていった。思わずも凝視しているうちに、どうした加減か、川のある箇所の水が捩れながら流れている。その様子がまるで縄を綯(な)っているように見えたというのである。縄を綯ったことのある人ならば、あのいつ果てるとも知れない単調な作業を思い出して、句景はすぐに了解できるだろう。作者はいつしか桜のことを忘れてしまい、しばし川水の力強い縄綯いの「現実」に見入ってしまうのであった。『月魄』(2009)所載。(清水哲男)


March 0932009

 沈丁花が一株あり日本社会党に与す

                           中塚一碧楼

戦翌年(1946)春の作句だ。沈丁花が一株、庭にある。花は地味だけれど、芳香は強い。この植物におのれを託した気持ちは、地味な国民のひとりとして「小なりといえども」の気概からだろう。未曽有の混乱期、作者に限らず国民の政治にかける期待は大きかった。一碧楼は同時に「小母さん自由党をいふ春のうすい日ざし地に照る」「浅蜊そのほかの貝持参共産党支持のこの友」とも詠んでいる。この年四月に戦後初の総選挙が行われることになっていたので、寄ると触ると選挙の話題が出たことをうかがわせる。前年12月の選挙法改正で20歳以上の男女が投票権を得て、はじめての選挙であった。女性参政権がはじめて認められたこともあり、立候補者はなんと2770人。いかにみんなが熱くなっていたかが推察できるだろう。結果はしかし、鳩山一郎率いる自由党が第一党と保守色が強く、作者の与(くみ)した日本社会党は進歩党についでの第三党に終わった。戦前からの知名度が物を言ったということか。ちなみに女性当選者は39人の多きを数え、そのひとりで後に白亜の恋で話題を呼ぶことになる若干27歳の松谷天光光の所属政党は「餓死防衛同盟」というものであり、当時の厳しい世相を反映している。作者はこの年の末に60歳で永眠。翌年の新憲法下ではじめて行われた選挙で片山哲の日本社会党が第一党になったことは、知る由もなかった。『日本の詩歌・俳句集』(1970・中央公論社)所載。(清水哲男)


March 1632009

 花の夜をボールふたたび淵を出で

                           竹中 宏

球のボールか、テニスのそれか。夜桜見物の折り、作者がふと川面に目をやると、夜目にも白いボールが浮いてゆっくりと流れていく。作者が目撃した実景は、ただそれだけである。しかし作者は瞬間的に、このボールが長い間川淵に引っかかっていて、それがいま「ふたたび」動き出したのだと思えたことから、俳句になった。では、何故そう思えたのだろうか。無理矢理に想像してこじつけたわけではない。ごく自然に、そう直覚したのだ。この直覚には、間違いなく世代によるボールへの価値観が結びつく。作者と私とはほぼ同世代だが、私たちが小さかった頃、敗戦後まもなくの頃のボールは貴重品だった。野球の試合中でも、何かのはずみでボールが川に落ちると、もう試合どころではない。全員が川まで駈けていって必死にボールを掬い上げたものだった。が、ときどきは、いくら目を凝らしても見つからないことがある。おそらくボールが、川淵の屈まったところに引っかかってしまったに違いないのだ。こうなると、まず見つからない。それでも未練がましく、しばらくは全員でぼおっと悔やみながら川面を見つめていたものだった。この句の実景を目にしたときに、作者の脳裏をすっとよぎったのは、たとえばそんな体験だったろう。だから「ふたたび」なのである。まさか「ああ、あのときのボールだ」と思ったわけではないけれど、ここにはそれに通じる思いがある。ほっとしたような、「なあんだ、こんなところにあったのか」と納得したような……。束の間の非日常的な「花の夜」に誘われたかのようにボールが淵を流れ出て、作者に思いがけない過去の日常をよみがえらせたということになる。私などの世代にとっては、まことにいとおしい時間と空間をもたらしてくれる句だ。俳誌「翔臨」(第64号・2009年2月)所載。(清水哲男)


March 2332009

 コノハナサクヤ三合の米を研ぐ

                           中居由美

年も桜の季節になった。「コノハナサクヤ」は『古事記』に出てくるコノハナサクヤヒメにかけてある。ただし、うっすらと……。ヒメはその美しさを望まれて天皇の后となった女性だが、一夜にして身ごもったことから、他の男の子供だろうと天皇に疑われる。そこでヒメはおのれの潔白を証明すべく、産屋に火を放って出産する。もしも天皇の子でないとしたら、無事にはすまないはずだというわけだ。そうして無事に産まれた子は三人だった。作者は桜が咲きはじめたことから、なんとなく「コノハナサクヤ(木の花咲くや)」と呟いたのだろう。で、いまやっている仕事が米を研ぐという典型的な庶民のそれであることに、大昔のヒメとの生活感の落差を感じて、ひとり可笑しいような少し情けないような思いがちらりと頭を掠めたのである。しかも「三」は三でも、米が三合。実はコノハナサクヤヒメは姉とともに嫁いだのだが、姉は醜かったので直ちに帰されてしまった。そんな後ろめたさを背負ってもいたので、彼女の人生は必ずしも明るかったとは言えない。そんなことも想起されて、作者は自分のドラマチックでもなく激情的でもない人生や生活のありようを、むしろ好ましく感じているのでもある。ほろ苦いユーモアの効いた佳句だ。『白鳥クラブ』(2009)所載。(清水哲男)


March 3032009

 よろけては春の真中を行く棒か

                           松林尚志


April 0642009

 泣きに来し裏川いまも花筏

                           中野きみ

歌にセンチメンタルな感情を込めるのは、意外に難しい。込め過ぎるとあざとくなり、さらっとしすぎると読者は感情移入できなくなる。そのあたりを、この句は程よくクリアーできていると思った。「花筏(はないかだ)」は、散った桜の花びらが水に浮かんで流れて行く様を,筏に見たてたものだ。裏の川に泣きに来たのは、もうずいぶんと昔の少女時代のこと。何がそんなに哀しかったのか。誰にも涙を見せたくなかったので、川淵に来てひとり泣いたことはよく覚えている。あのときも涙でぼやけてはいたけれど、いま眼前を行くのと同じように花びらの帯が流れていたっけ。純真だった、いや純粋過ぎたあの頃。毎年春になれば、こうして花筏は同じように流れて行くが、もうあの頃の自分は帰ってこないのだ。美しい花筏に触発されて、作者はしばし心地よい感傷に浸っている。そして、私という読者もまた……。『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


April 1342009

 ぴいぴい昭和のテレホンカード鳥雲に

                           望月たけし

衆電話をかけている。「ぴいぴい」は、むろんテレホンカードの出し入れの際に鳴る機械音だ。この音を鳥の鳴き声にかけてあるのかとも思ったが、いささか無理がある。それよりも、人が電話をかけるときの視線に注目した。ダイヤルや文字盤に電話番号を登録してから相手が出る迄のわずかな時間、たいていの人は所在なげに上方を見上げて待つ。この間、ダイヤルを睨んだままで待つ人は少ないだろう。作者も何気なく空を見上げたところ、偶然にも北に帰って行く鳥影が見えたのである。ここでごく自然に、作者と空とが結びつく。ああ、もうそんな季節なのか。束の間、去り行くものへの愛惜の念が胸をよぎる。そう言えば、このテレホンカードも去って行った昭和のものだ。電話をかけ終わると、また「ぴいぴい」とカードが鳴いた。機械的な音だけれど、それが今はなんだかいとおしいような感じを受ける。そこで作者はもう一度、はるかな空を見上げたに違いない。何気ない現代の日常的な行為を巧みに捉えた、去り行くものへの挽歌である。「ぴいぴい」が実に良く効いている。一読、後を引く。これが「現代俳句」というものだろう。『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


April 2042009

 朝寝して敗者に似たる思ひあり

                           菅原けい

語は「朝寝」で「春眠」に分類。父が早起きの性だったことと農家だったことで、子供の頃から早起きだった。起床は遅くとも午前六時。それ以上寝ていると、父に容赦なく布団をひっぺがされた。それが性癖となってしまい、夜明け前に起きるのはへっちゃら。と言うよりも、太陽が顔を出す前に自然に目がさめてしまうようになったのである。おかげで、後年ラジオの朝番組のときには大いに役立った。しかし、何かの拍子に、起きると外が少し明るい朝もある。そんなときは、この句の作者のようにみじめな気分になってしまう。「ああ、シッパイした」などとつぶやいたりする。なんとなく損したような気分なのだ。この句はたぶんそんな早起き人間にしかわからないだろうが、少しくらい朝寝したからといって、別に生活に支障があるわけじゃなし、どうしてみじめな気持ちになってしまうのか。自分の意思とかかわりないところで、性癖が崩れることに漠然とした不安を覚えるからなのだろうか。三十代でやむをえずフリーという名の失業者になったときには、早起きの自分にいささか辟易させられた。早く起きたってすることもないので、それまでなら出勤する時間まで何もせずに過ごしていたのだが、これがなかなかに辛かった。早起きは習い性だったけれど、朝の時間に読書とか何かをする習慣はなかったからだ。たまらなくなったので、机の前に次の江戸狂歌を大きく書いて貼っていた時期がある。「世の中に寝るほど楽はなかりけり 浮世の馬鹿は起きてはたらく」。座右の銘のつもりであった。『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


April 2742009

 酒好きのわれら田螺をみて育ち

                           館岡誠二

の肴としてよく出てくる「田螺(たにし)」を、私は食べられない。いや、食べない。理由は、句の男たちのように「田螺をみて」育ったからだ。育った土地に食べる風習がなかったこともあって、田螺は食べるものではなく、いつだって見るものだった。待ちかねた春を告げる生き物のひとつだった。冬眠から目覚めた田螺たちが、田んぼのなかで道を作るようにかすかに動いていく様子を眺めるのが好きだった。田螺が出てくる頃は、もうあたりはすっかり春で、田螺をみつめる時間には同時に日向ぼこの心地よさがあった。私ばかりではなく、昔の遊び仲間たちもよく屈みこむようにして飽かず眺めていたものである。そんなふうに、往時には道端などで何かを熱心にみつめて屈みこんでいる子供がいたものだったが……。句の男たちもそんなふうに育ってきて、いまやいっちょまえの酒飲みになっている。そんな彼らの前に、田螺が出てきたのだろう。が、誰も箸をつけようとはせず、田螺を見た子供時代の思い出を肴に飲んでいる図だ。この場に私がいたとすれば、「幼なじみを食うわけにはいかねえよ、なあ」とでも言ったところである。大人になってからの同級会を思い出した。『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


May 0452009

 にんげんに吠える草あり春の山

                           鈴木光彦

語「春の山」といえば、春風駘蕩、まことにおだやかなたたずまいの山をイメージさせる。たいていの句は、そのようなイメージから作られてきた。だが、作者はそんな常識的なイメージを踏まえつつも、山という自然はそうそう人間の都合の良い解釈や見立てどおりにはならないことを知っている。一見やわらかくおだやかな色彩で私たちを招くかのごとき春の「草」のなかにも、突然「吠えかかって」くるような凶暴さを示す草だってあるのだ。とりわけて他に誰もいない山中にあるときなど、少し強い風が出てくると、丈の高い雑草の群れがざわあっという感じで揺れる様子には、どこか不気味な恐さを感じるものだ。「にんげん」の卑小を感じる一瞬である。「そよぐ」という言葉には、漢字で「戦ぐ」と当て、「戦」には「おそれおののく」の意もあって、これはそういう意識につながっているのかもしれない。その意味からも、掲句は既成の季語に対する反発、吠えかかりなのであるが、山をよく見て詠んだ至極忠実な写生句ともなっている。句作りで安易に季語に寄り掛かるなという警鐘としても、拳拳服膺する価値があるだろう。『現代俳句歳時記・春』(2004・学習研研究)所載。(清水哲男)


May 1152009

 おばさんのような薔薇園につかれる

                           こしのゆみこ

はは、ホントホント。毎年夏になると、バスで十五分ほどの神代植物公園に出かけるが、この季節の目玉は薔薇園である。全部で三十万輪も咲くというから、壮観だ。現代薔薇の始祖とされる貴重な「ラ・フランス」も咲いてくれる。それはそれで結構なのだけれど、見ているうちにどんどん疲れが増幅してくるのは何故なのか。いつも不可思議に思っていたが、掲句を読んで納得できたように思う。言われてみれば、何かの拍子におばさんたちの輪の中に入ってしまったときの疲れように、確かに似ている。中高年女性を一口で「おばさん」と括ってしまうことの是非は置くとして、総じておばさんなる人たちは押しの強いのが特徴だ。饒舌であれ寡黙であれ、彼女たちの自己主張ぶりには辟易させられることが多い。とにかく無視は許されない雰囲気がある。だから、会話には気を使う。あちらを立てたら、こちらも立てなければならない。薔薇だって同じこと。豪華な花もあるし、清楚に通じるそれもある。でも、そのいずれもが、押しの強さでは負けていない。お互いに妍を競いつつ、こちらの顔色をじいっとうかがっているように見えてしまう。疲れるのは当たり前なのである。しかも、この句は同性の作だ。してみると、おばさんたちは同性の仲間内にあっても、男と同じように疲れるというわけか。いやはやご苦労さんとでも言うしかないけれど、意地悪な句のようであって、そうではないくすくす笑いを誘うところに、作者の人柄を垣間見たような気がした。『コイツァンの猫』(2009)所収。(清水哲男)


May 1852009

 筍と若布のたいたん君待つ日

                           連 宏子

の命は「たいたん」という関西言葉だ。関東言葉に直せば「煮物」であるが、これではせっかくの料理の「味」が落ちてしまう(笑)。この句には、坪内稔典・永田和宏による『言葉のゆくえ』(2009・京都新聞出版センター)で出会った。出会った途端に、美味しそうだなと唾が湧いてきた。ただし関西訛りで読めない人には、お気の毒ながら、句の味がきちんとはわからないだろう。同書で、稔典氏は書いている。「女性がやわらかい口調で『たいたん』と発音すると、筍と若布のうまみが互いにとけあって、えもいえぬ香りまでがたちこめる感じ。『たいたん』は極上の関西言葉なのだ」。ついでに言っておけば、関東ではご飯以外にはあまり「炊く」を使わないが、関西では関東の「煮る」のように米以外の調理にも頻繁に使う。冬の季語である「大根焚(だいこたき)」は京都鳴滝の了徳寺の行事だから、やはり「煮」ではなく「焚(炊)」でなければならないわけだ。同じ作者で、もう一句。「初蝶や口にほり込む昔菓子」。これも「ほうり込む」では、情景的な味がでない。言葉の地方性とは、面白いものである。なお、掲句の季節は「筍」に代表してもらって夏季としておいた。『揺れる』(2003)所収。(清水哲男)


May 2552009

 水音は草の底より蛇苺

                           ふけとしこ

のように田舎で育った人間には、ごく当たり前の情景ではあるが、それだけにいっそうの郷愁を呼び起こしてくれる句だ。細い山道を歩いていたりすると、どこからか水の流れる音が聞こえてくる。周囲には雑草が繁茂しているので、小さな流れは「草の底」にあって見えないのである。そんな山道には、ところどころに「蛇苺」が真っ赤な実をもたげている。この苺は食べてはいけないことになっていたからか、路傍に鮮やかでもどこかよそよそしく見える。しかも私には、蛇苺は日を遮られた薄暗い場所を好むという印象があるので、情景は一種陰気な情感を醸し出す。それがかえって、もうほとんど忘れかけていたかつての自分のあれこれまでをも想起させることになった。この情景をいま、たとえばビデオカメラで撮影してくっきりと蘇らせることは可能だ。でも、それは句のようには郷愁につながってはいかないだろう。なぜなら、ビデオカメラには水の音や蛇苺の姿を忠実に再生する力はあっても、あくまでもそれは人為的に切り取った断片的な情報以上の情報をもたらさないからである。このあたりに、文芸の力がある。句はたしかに情景を切り取ってはいるのだけれど、しかし、それは切り取った情景以上の時間や空間をいっしょに連れて来るものだからだ。掲句にも、切り取られた情景よりもはるかに多量の情報がつまっている。この点を肯定しなければ、第一、俳句のような短い様式は根本から成立しなくなってしまう。言葉とは、面白いものである。最近、蛇苺を見ない。『インコに肩を』(2009)所収。(清水哲男)


June 0162009

 紫陽花を活けてナースのサウスポー

                           姉崎蕗子

者はベテランの看護師だ。朝のナースの詰め所で、後輩が紫陽花を活けている。普段はさして気にも留めていなかったけれど、彼女ないしは彼は左利きだった。右利きの人間には左利きの人のちょっとした所作も器用に写るものだから、作者も思わず見入っているのだろう。左手の動きが、まことにしなやかで頼もしく思われる。左利きとせず、あえて「サウスポー」と野球用語を使ったことで、腕の動きがクローズアップされた。紫陽花のざっくりとした持ち味も、生きてくる。なんでもない日常の一場面だが、職場の充実した雰囲気がよく伝えられている。ところで、活けているのは女だろうか男だろうか。英語の「ナース(nurse)」は両者を言うから、どちらなのかはわからない。これを「看護師」と訳しても同様だ。この国では、つい最近まで「看護婦」という言葉が生きていたのに、男女差別になるからと追放してしまったのは、私には解せない。「看護婦」のどこが差別なのか。単なる区別だろうに……。掲句のナースは、野球用語が使われてはいても、女性だと思う。このしなやかさとたくましさを備えていることで、昔から看護婦は頼もしくも美しかった。『蕗子』(2009)所収。(清水哲男)


June 0862009

 弾みたる子等の声して目高散る

                           川崎美代子

高は耳聡いのだろうか。童謡「めだかの学校」の生まれた背景に、こんな話がある。作詞者の茶木繁が幼い息子と一緒に歩いていたとき、息子が用水に目高を見つけて大声を出した。すると目高たちが姿を隠してしまったので、茶木が言った。「あんまり大声を出すもんだから、逃げちゃったじゃないか」。で、息子が言ったことには「大丈夫、また戻ってくるよ。だって、ここは"めだかの学校"だもん」。これが作詞のヒントになったのだという。だから「そっとのぞいてみてごらん」なのである。つまり、「大声をだしてはいけないよ」という大人の知恵を効かせてある。息子のの屈託の無さに比べると、かなり素直さに欠けており、掲句も微笑ましい佳句ながら、同様に大人の限界も透けているかのようだ。私が子供だった頃のことを思い返してみても、"そっとのぞいて"目高の群れを眺めるようなことは、あまりしなかったと思う。見つけたら、まずは水に手を突っ込む。さらには棒切れで引っかき回す。それにも飽きると、今度はそおっと近づいて、やにわに両手で捕獲するのだ。そして、ここからが本番。捕獲した目高は決して放さずに、生きたまま飲み込むのである。べつに目高が美味いからではなくて、これは一種の度胸試しなのであった。飲めない子は、意気地無しと馬鹿にされ囃された。馬鹿にされるのは悔しいから、みんな争って何匹も口に放り込む。これが目高との主たるつきあい方だった。大人になると、こんな悪ガキの生態をおおかた忘れてしまう。微笑ましい情景だけを切り取ってきて満足するようになる。大人になるって、なんか侘びしいんだよなあ。円虹例句集『彩』(2008)所載。(清水哲男)


June 1562009

 一鍬で盗みし水の音高し

                           遊田久美子

の「水盗む」も、使われなくなった季語の代表格だろう。しかし新しい歳時記にも、依然として「水番」の傍題で載せられている。昔の句を読む際の手引きになるからだ。昔といっても、掲句の場合はおそらく昭和三十年代くらいの作ではあるまいか。その頃まではまだ農事用水が貧弱だったので、水争いは各地で発生していた。日照りがつづくと、田の水が干上がってくる。水を平等に確保するために、農民同士いろいろな約束を結んではいたけれど、それを無視して夜陰に乗じ、自分の田に水を引き入れるのが「水盗む」だ。そうはさせじと見張りを置く。これが「水番(みずばん)」。いくら約束事があっても、自分の田の水がなくなってきたら、どうにかしたくなるのは当たり前だ。そのままにしておけば、秋の収穫は望めない。やむなく作者は夜中こっそり田に出ていって、ほんの「一鍬」だけ入れて、畔の隅の方に小さな水路を作った。途端に水が注ぎ込みはじめたのだが、あたりの静寂を破るほどの轟音に聞こえたと言うのである。昼間だったら、ちょろちょろ程度の音だろう。水泥棒という後ろめたさが伴うので、作者は心臓が破裂しそうになっている。年に一度の収穫しかできない稲作仕事は、ある意味で博奕商売である。負けたら、確実に飢えが待っている。それを避けるためには、他人の水にだって手を付けなければならぬ。この国の農業は、一方でそんな暗い歴史を背景につづいてきた。私と同世代の作者の家は代々の農家だそうで、進学の希望もかなえられなかった経歴を持つ。元農家の子の心にも、深く沁み入ってくる作品である。『鎌祝』(2009)所収。(清水哲男)


June 2262009

 山椒魚あらゆる友を忘れたり

                           和田悟朗

椒魚と聞けば、井伏鱒二の短編を思い出す。近所の井の頭自然文化園別館に飼育されているので、たまに見に行くが、いつも井伏の作品を反芻させられてしまう。この国では、本物の山椒魚よりも、井伏作品中のそれのほうがポピュラーなのかもしれない。この句を読んだ時にも、当然のように思い出した。作者にしても、おそらく井伏作品が念頭にあっての詠みだろう。文学、恐るべし。谷川にできた岩屋を棲家としている山椒魚は、ある日突然、その岩屋の出口から外に出ることができなくなるほど大きくなってしまっていることに気づく。大きくなった頭が、岩屋の出口につっかえてしまうのである。孤独地獄のはじまりだ。そこでついには、岩屋の中に入り込んできた蛙を自分と同じ境遇にしてしまえと考えて、閉じ込めてしまう。彼らのその後の運命については、書かれていないのでわからない。しかし、たぶんその蛙は先に死んでしまい、その後の山椒魚は孤独の果てに、ついには世俗へのあらゆる関心を失って行く。ただ、ぼおっとしていて、ほとんど身じろぎすらもしない存在と化してしまう。そのことを「あらゆる友を忘れたり」と一言で表現した作者の想像力は深くて重い。なんという哀しい言葉だろうか。今度山椒魚を見る時には、私はきっとこの句を思い出すにちがいない。『現代俳句歳時記・夏』(2004・学習研究社)所載。(清水哲男)


June 2962009

 「夕べに白骨」などと冷や酒は飲まぬ

                           金子兜太

年の盟友であった原子公平(はらこ・こうへい)への追悼句五句のうち。命日は2004年7月18日、84歳だった。一句目は「黄揚羽寄り来原子公平が死んだ」だ。この口語体が兜太の死生観をよく表しており、掲句にもまたそれがくっきりと出ている。作者をして語らしめれば、死についての考えはこうである。「人の(いや生きものすべての)生命(いのち)を不滅と思い定めている小生には、これらの別れが一時の悲しみと思えていて、別のところに居所を移したかれらと、そんなに遠くなく再会できることを確信している。消滅ではなく他界。いまは悲しいが、そういつまでも悲しくはない」。だから「夕べに白骨」(蓮如)などと死を哀れみ悲しんで、冷や酒で一時の気持ちを紛らわすことを、オレはしないぞと言うのである。他者の死を、そのまま受け取り受け入れる潔い態度だ。年齢を重ねるにつれて、人は数々の死に出会う。出会ううちに、深く考えようと考えまいと、おのずからおのれの死生観は固まってくるものだろう。そこから宗教へとうながされる人もいるし、作者のようにいわば達観の境地に入ってゆく人もいる。おこがましいが、私は死を消滅と考える。麗句を使えば、死は「自然に還ること」なのだと思う。したがって、私もふわふわしていた若い頃とは違い、あえて冷や酒を飲んだりはしなくなった。死についての考えは違っても、この句の言わんとするところはよく理解できるつもりだ。『日常』(2009)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます