リ檀句

January 0712009

 七くさや袴の紐の片むすび

                           与謝蕪村

般に元旦から今日までが松の内。例外もあって、十五日までという地方もある。人日とも言う。七草とは、せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ。これら七種を粥にして食べれば万病を除く、とされるこの風習は平安朝に始まったという。蕪村の時代、ふだんは袴などはいたことのない男が、事改まって袴を着用したが、慣れないことと緊張とであわてて片結びにしてしまったらしい。結びなおす余裕もあらばこそ、そのまま七草の膳につかざるを得なかったのであろう。周囲の失笑を買ったとしても、正月のめでたさゆえに赦されたであろう。七草の祝膳・袴姿・片むすび――ほほえましい情景であり、蕪村らしいなごやかさがただよう句である。七草のことは知っていても、雪国の田舎育ちの私などは、きちんとした七草の祝膳はいまだに経験したことがない。ボリュームのある雑煮餅で結構。もともと雪国の正月に七草など入手できるわけがない。三ケ日の朝食に飽きもせず雑煮餅を食べて過ごしたあと、さすがにしばし餅を休み、「七日正月」とか何とか言って、余りものの大根や葱、豆腐、油揚、塩引きなどをぶちこんだ雑煮餅を食べる、そんな〈七草〉だった。江戸時代に七草を詠んだ句は多いと言われるけれど、蕪村が七草を詠んだ句は、この一句しか私は知らない。志太野坡の句に「七草や粧ひかけて切刻み」がある。『与謝蕪村集』(1979)所収。(八木忠栄)


January 1412009

 サラリーマン寒いね東スポ大切に

                           清水哲男

年からの世界的な不景気のことを、新年早々からくり返したくもない。けれどもサラリーマンに限らず、自営、新卒の人たちも含めて、このところのニッポンの寒さは一段と厳しい。何年も前に作られた哲男の句がピッタリするような世の中に相成りました。もっとも景気の良し悪しにかかわらず、通勤するサラリーマンがスポーツ紙に見入っている図は、どこかしら寒々として見える。私もサラリーマン時代には、電車のなかや昼休みの喫茶店でよく「東スポ」や「スポニチ」を広げて読んでいた。売らんかなのオーバーでバカでかい見出し文字や大胆な報道が、サラリーマンの鬱屈をしばし晴らしてくれる効果があった。掲出句の場合、いきなり「サラリーマン」ときて「寒いね」の受けがピシリと決まっている。せつなくもやさしく同病(?)相憐れんでいるのかもしれない。この場合、冬の「寒さ」ばかりではあるまい。かつて「♪サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ・・・・」とも歌われたけれど、私の経験から言えば気楽な反面、憐れな稼業でもあることは骨身にしみている。おそらく若いサラリーマンであろう。広げている新聞が日経でも朝日でもなく、東スポであるところが哀しくもうれしいではないか。若いうちから日経新聞(恨みはございませんが)に真剣に見入っているようでは、なんとも・・・・。下五の「大切に」に作者の毒を含んだやさしい心がこめられている。憐れというよりもユーモラスで暖かい響きが残された。『打つや太鼓』(2003)所収。(八木忠栄)


January 2112009

 雪竹のばさとおきたる日向かな

                           中 勘助

きたる、は「起きたる」。竹は冬なお青い葉をつけているが、ある量の雪が降ると、その重さに耐えきれず、枝に雪をのせたまま撓い弓なりになって、先端のほうの枝葉が雪に埋もれて凍りついてしまう。陽が高くなって暖気になると、竹は溶けだした雪をはね飛ばしてビーンと起きあがることがある。雪竹が時折「ばさ」と音立てて起きあがったのち、竹林にはいっそうの静寂が広がる。勘助はその瞬間を「ばさとおきたる」ととらえた。私にも実際にこんな経験がある。――子どもの頃、雪がかなり積もると裏山にあるわが家の竹林へ出かける。何本もの竹が雪をのせて弓なりになっている。耐えきれずにすでに折れている小竹もある。子ども心にも可哀相だから、片っ端から竹の先端を埋めた雪を除けてやる。すると竹は生き返ったように、まさに「ばさ」と雪をあたりに散らし、身震いするようにビーンと起きあがる。それがうれしくておもしろくて、心をワクワクさせながら次々に竹を起こしてあるいた。親に言いつけられたわけではなく、たまたま雪で弓なりになっている竹を目にしてからは、雪が積もると裏山へ出かけて行った。起きあがる竹の喜びの声が聞こえるようだった。起きあがった竹の青々とした樹皮を、溶けた雪が雫になって伝わり落ちる。そうして初夏に生え出るタケノコには格別な味わいを感じた。――今は昔のものがたり。勘助は太平洋戦争で疎開した頃から俳句を作りはじめ、多くの俳句を残している。「ひとり碁や笹に粉雪のつもる日に」という一句もある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


January 2812009

 座布団を猫に取らるゝ日向哉

                           谷崎潤一郎

の日当りのいい縁側あたりで、日向ぼこをしている。その折のちょっとしたスケッチ。手洗いにでも立ったのかもしれない。戻ってみると、ご主人さまがすわっていた座布団の上に、猫がやってきて心地良さそうにまあるくなっている、という図である。猫は上目づかいでのうのうとして、尻尾をぱたりぱたりさせているばかり。人の気も知らぬげに、図々しくも動く気配は微塵もない。お日さまとご主人さまとが温めてくれた座布団は、寒い日に猫にとっても心地よいことこの上もあるまい。猫を無碍に追いたてるわけにもいかず、読みさしの新聞か雑誌を持って、ご主人さましばし困惑す――といった光景がじつにほほえましい。文豪谷崎も飼い猫の前では形無しである。ご主人さまを夏目漱石で想定してみても愉快である。心やさしい文豪たち。「日向ぼこ」は「日向ぼこり」の略とされる。「日向ぼっこ」とも言う。古くは「日向ぶくり」「日向ぼこう」とも言われたという。「ぼこ」や「ぼこり」どころか、あくせく働かなければならない人にとっては、のんびりとした日向での時間など思いもよらない。日向ぼこの句にはやはり幸せそうな姿のものが多い。「うとうとと生死の外や日向ぼこ」(鬼城)「日に酔ひて死にたる如し日向ぼこ」(虚子)。「死」という言葉が詠みこまれていても、日向ゆえ少しも暗くはない。潤一郎の俳句は少ないが、他に「提燈にさはりて消ゆる春の雪」という繊細な句もある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


February 0422009

 スナックに煮凝のあるママの過去

                           小沢昭一

、昔の家はみな寒かった。ストーブのない時代、せいぜい炬燵はあっても、炬燵で部屋全体が温まるわけではない。身をすくめるようにして炬燵にもぐりこんでいた。まして火の気のない時の台所の寒さは、一段と冷え冷えとしていた。だから昨夜の煮魚の汁は、朝には鍋のなかで自然と煮凝になっていることが多かった。掲出句の煮凝は料理として作られた煮凝ではなく、ママさんが昨夜のうちに煮ておいた魚の煮汁でできた煮凝であろう。お店で愛想を振りまいているママさんの過去について、男性客たちはひそかに妄想をたくましくしているはずだが、知りようもない。知らないなりに、しみじみと煮凝をつついているほうが身のためです。まあ、女性としての変遷がいろいろとあったのでしょう。決して輝かしい一品料理ではなく、さりげない(突き出しの)煮凝に過去の変遷が重なって感じられる。ママさんの過去がそこに一緒に凝固しているようでもある。「煮凝」と「ママの過去」の取り合わせ、昭一ならではの観察に感服。小ぢんまりとしてアットホームなスナックなのだろう。この場合、「女将(おかみ)」ではなく、「ママ」という言葉のしゃれた響きがせつない。一九六九年一月の第一回やなぎ句会の席題句で、天位に入賞した傑作。その席で、ほかに「煮凝や病む身の妻の指図にて」(永井啓夫)「煮こごりの身だけよけてるアメリカ人」(柳家小三治)などの高点句もあった。小沢昭一『友あり駄句あり三十年』(1999)所収。(八木忠栄)


February 1122009

 冬の坂のぼりつくして何もなし

                           木下夕爾

な坂道をくだるとき、前方はよく見えている。けれども、坂道をのぼるときはもちろん前方は遠くまで見えているとはかぎらない。坂のむこうには空だけ、あるいは山だけしか見えていないかもしれない。その坂をのぼりきったところで、冬は何もないかもしれないのだ。いや、枯れ尽くした風景か冬の風物が、忘れ物のようにそこにあったとしても、まるで何もないように感じられるのだろう。春、夏、秋では「何もなし」とはならない。もっとも掲出句の場合は、現実の風景そのものというよりも、心象的な空虚感も詠みこまれているのではあるまいか。冬の寒々とした風景は、場合によってはもはや風景たり得ていないこともある。そこには作者の心の状態が、色濃く影を落としているにちがいない。懸命に坂をのぼってきてようやくのぼりきったのに、達成感よりもむしろ空虚感がぽっかり広がるのみで、作者の心に満たされるものとてない。ここに一つの人生論的教訓みたいなものまで読みとりたいと、私は思わないけれど、何やらそのようなものが感じられないこともない。寒々しい冬にふと感じられた、風景と心のがらんどう「何もなし」を、素直に受けとめておこう。夕爾には「樹には樹の哀しみのありもがり笛」という句もある。『菜の花集』(1994)所収。(八木忠栄)


February 1822009

 つみ上げし白き髑ろか雪の峯

                           会津八一

るほど冬の山間部に踏みこめば、雪に覆われた峯々は確かに「白き髑(どく)ろ」を重ねたように見える。大きくふくらんで盛りあがっている髑髏もあれば、小さくちぢこまっている髑髏もある。さまざまな表情をした髑髏が、身を寄せ合い重なり合っているようであり、峯々はまさしく「つみ上げ」たようにも眺めることができる。上五「つみ上げし」が、見あげるような峯の高さを表現している。凝ったむずかしい表現を避けて、さりげなく「つみ上げし」としたところにかえって存在感がある。特に雪の詠み方は、妙な技巧をほどこさないほうが生き生きとした力を発揮する。雪の峯を「髑ろ」ととらえてみせたところに、モノの姿かたちを厳密に見つめる書家・秋艸道人らしい視線が感じられる。その「白き髑ろ」の表情も、天候や時間の経緯によって刻々と変化して見えてくるはずである。髑髏とはいえ、ここには少々親しげな滑稽味も読みとれる。雪山はある時は峨々として、ある時はたおやかにも眺められよう。但し、八一が「髑ろ」である、と断定しきらずに、一語「・・・か」という疑問含みのニュアンスを残したことによって、句の奥行きが増したと言える。八一の俳号は八朔郎。ほかに雪を詠んだ句に「あさ寒や妙高の雪みな動く」「俳居士の高き笑や夜の雪」などがある。『会津八一全集第六巻 俳句・俳論』(1982)所収。(八木忠栄)


February 2522009

 幇間の道化窶れやみづっぱな

                           太宰 治

の場合、幇間は「ほうかん」と読む。通常はやはり「たいこもち」のほうがふさわしいように思われる。現役の幇間は、今やもう四人ほどしかいない。(故悠玄亭玉介師からは、いろいろおもしろい話を伺った。)言うまでもなく、宴席をにぎやかに盛りあげる芸人“男芸者”である。いくら仕事だとはいえ、座持ちにくたびれて窶(やつ)れ、風邪気味なのか水洟さえすすりあげている様子は、いかにも哀れを催す。幇間は落語ではお馴染みのキャラクターである。「鰻の幇間(たいこ)」「愛宕山」「富久」「幇間腹(たいこばら)」等々。どうも調子がいいだけで旦那にはからかわれ、もちろん立派な幇間など登場しない。こういう句を太宰治が詠んだところに、いかにも道化じみた哀れさとおかしさがいっそう感じられてならない。考えてみれば、太宰の作品にも生き方にも、道化た幇間みたいな影がちらつく。お座敷で「みづっぱな」の幇間を目にして詠んだというよりも、自画像ではないかとも思われる。「みづっぱな」と言えば、芥川龍之介の「水洟や鼻の先だけ暮れ残る」がよく知られているし、俳句としてもこちらのほうがずっと秀逸である。二つの「水洟」は両者を反映して、だいぶ違うものとして読める。太宰治の俳句は数少ないし、お世辞にもうまいとは言えないけれど、珍しいのでここに敢えてとりあげてみた。ほかに「春服の色 教えてよ 揚雲雀」という句がある。今年は生誕百年。彼の小説が近年かなり読まれているという。何十年ぶり、読みなおしてみようか。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


March 0432009

 人形も腹話術師も春の風邪

                           和田 誠

どもの頃、ドサまわりの演芸団のなかにはたいてい腹話術も入っていて、奇妙といえば奇妙なあの芸を楽しませ笑わせてくれた。すこし生意気な年齢になると、抱っこされて目をクリクリ、口パクパクの人形の顔もさることながら、腹話術師の口元のほうに目線を奪われがちだった。なんだ、唇がけっこう動いているじゃないか、ヘタクソ!とシラケたりしていた。腹話術師は風邪を引いたからといって、舞台でマスクをするわけにはいかないから、人形にも風邪はうつってしまうかもしれない。絶対にうつるにちがいない、と考えると愉快になる。――そんな妄想を、否応なくかきたててくれるこの句がうれしい。冬場の風邪ではなく、「春の風邪」だからそれほど深刻ではないし、どこかしらちょいと色気さえ感じられる。そのくせ春の風邪は治りにくい。舞台の両者はきっと明かるくて軽快な会話を楽しんでいるにちがいない。ヨーロッパで人形を使った腹話術が登場したのは、18世紀なかばとされる。イラストだけでなく、しゃれた映画や、本職に負けない詩や俳句もこなすマルチ人間の和田さん。通常言われる「真っ赤な嘘」に対し、他愛もない嘘=「白い嘘」を句集名にしたとのこと。ことばが好きであることを、「これは嘘ではありません」と後記でしゃれてみせる。ほかに「へのへのと横目で睨む案山子かな」という句も楽しい。虚子の句に「病にも色あらば黄や春の風邪」がある。『白い嘘』(2002)所収。(八木忠栄)


March 1132009

 春の雪誰かに電話したくなり

                           桂 米朝

球温暖化のせいで、雪国だというのに雪が少なくてスキー場が困ったりしている。春を思わせる暖かい日があるかと思えば、一晩に一挙に30センチ以上も降ったりすることが、近年珍しくない。私の記憶では、東京では冬よりもむしろ三月に雪が降ることが少なくなかった。季節はずれに雪が降ったりすると、なぜかしら親しい友人につい電話して、雪のことにとどまらず、あれこれの近況を語り合ったりしたくなる。電話口で身を縮めながらも、「今ごろになってよう降るやないか。昼席がハネたら雪見酒としゃれようか」とでも話しているのかもしれない。もっとも雪国でないかぎり、昼席がハネる頃には雪はすっかりあがっているかもしれない。雪は口実、お目当ては酒。春の雪は悪くはない。顔をしかめる人は少ないだろう。むしろ人恋しい気持ちにさせ、ご機嫌を伺いたいような気持ちにさせてくれるところがある。米朝は八十八の俳号で、東京やなぎ句会の一員。言うまでもなく、上方落語の第一人者で人間国宝。息子の小米朝が、昨年10月に五代目桂米団治を襲名した。四代目は米朝の師匠だった。米朝が俳句に興味をもったのは小学生の時からで、のち蕪村や一茶を読みふけり、「ホトトギス」や「俳句研究」を読んだという勉強家。「咳一つしても明治の人であり」「少しづつ場所移りゆく猫の恋」などがある。小沢昭一『友あり駄句あり三十年』(1999)所収。(八木忠栄)


March 1832009

 牛のせて舟泛びけり春の水

                           徳田秋声

書に「潮来」とある。潮来(いたこ)の川舟には一度だけ乗ったことがある。もちろん今や観光が主で、日焼けした陽気なおじさんや、愛想のいい若づくりしたおばさんが器用に竿をあやつってくれる。川べりに咲くあやめをはじめとする花や風景を眺めながらの観光は、まちがいなくゆったりした時間にしばし浸らせてくれる。けっこう楽しめる。もっとも、あやめの時季は五月末頃から六月にかけてだから、掲出句で牛を乗せて泛(うか)んでいる舟は、まだあやめの時季ではない。仕事として牛を運んでいるのである。潮来のあたり、観光エリアのまわりには広大な田園地帯が広がっている。春田を耕ちに向かう牛だろうか、買われてきた牛だろうか。いずれにせよ、ぬかる田んぼでこき使われる運命にある。しかし、今はのんびりと広がる田園の風景しか見えていない。竿さばきも悠揚として、舟の上で立ったままの牛も今のところ、のんびり「モォーー」とでも鳴いているにちがいない。春の水も温くなり、ゆったりとして流れるともなく流れている。一幅の水墨画を前にしているようで、こちらも思わずあくびが出そうになる。秋声は師の尾崎紅葉が俳句に熱心だったこともあって、多くの俳句を残している。「花の雨終にはさむる恋ながら」。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


March 2532009

 全身を春いっぱいにする涙

                           豊原清明

東地方でもようやく桜がほころびはじめた。春はなにも桜とかぎったわけではないけれど、やはり桜が咲くことによって、私たちのからだのなかにも春は機嫌よく広がってゆく。「全身を春いっぱいにする」のは、春の真新しい涙に映っているチューリップであり、辛夷であり、桜であり、青空に浮かぶちぎれ雲かもしれない。それらは春があちらこちらにあふれさせ、こぼした「涙」とも言えるのではないか。「涙」をもってきたところに、作者の清新なポエジーが感じられる。幸せいっぱいの涙、悲しみをこらえきれない涙、理由もなくセンチメンタルになってしまう涙・・・・全身になぜか涙が広がり、春が広がってゆくうれしさ。きれいな季節を奏でているかのような春の涙。春こそいろいろな意味での「涙」があふれる季節、と言っていいかもしれない。その涙は目からあふれるにちがいない。それ以前に全身これ春というふうに涙がいっぱい詰まっている、そのように大胆にとらえているところに、この詩人独自のポエジーの躍動が鮮やかに感じられる。春と涙の関係に鋭く着目したわけである。清明は処女詩集『夜の人工の木』で第一回中原中也賞を受賞した(1996)。「朝日新聞」俳壇では金子兜太選で現在も頻繁に入選していて、私は以前から注目している。清明は「ここ数年、真面目な俳句を『海程』に投句しています」と書いている。「火曜」97号(2009)所載。(八木忠栄)


April 0142009

 噴水のりちぎに噴けり万愚節

                           久保田万太郎

日は万愚節(四月馬鹿)。今の時季、あちこちの句会ではこの季語を兼題とした夥しい句が量産されているにちがいない。日本各地で“馬鹿”が四月の始まりを覆っていると思うと、いささか愉快ではないか。言うまでもなく、この日はウソをついて人をかついでもよろしいとされる日である。もともと西欧から入ってきた風習であり、April Fool's Day。フランスでは「四月の魚」と呼ぶ。インドが起源だとする説もあるようだが、一般に起源の確証はないそうである。現在の噴水はだいたい、コンピューター操作によって噴き方がプログラミングされているわけだから、勝手気ままに乱れるということなく、きちんと噴きあげている。掲出句は「りちぎ(律儀)」ととらえたところに、万太郎ならではの俳味が加わった。世間は「万愚節」だからといって、春の一日いたずら心のウソで人を惑わせようとくわだて、ひそかにニヤリとしているのに、噴水は昨日も今日も変わることなく水を高々と噴きあげている。万太郎は滑稽な噴水図を作りあげてくれた。人間世界に対する皮肉でもあろう。もっとも、そこいらじゅうに悪質なウソが繁殖してきている今の時代にあっては、万愚節という風習がもつゆとりとユーモアも半減というところか。万愚節を詠んだことのない俳人はいないだろう。「万愚節半日あまし三鬼逝く」(石田波郷)「また同じタイプに夢中万愚節」(黛まどか)。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


April 0842009

 雲も水も旅をしてをり花筏

                           相生葉留実

が咲いても散っても、雲は流れ水も止むことなく流れている。その雲は地上に散ったはずの桜が、何かの拍子に空に固まって浮かんだみたいに見えているのかもしれない。流れる水は散った花びらを浮かべて、みごとな花筏になっている。悠久の時間を旅している雲も水も、花筏をとりこんだことによって、この句では大きくて美しい時空を造形することができた。雲は天にあり、水は地にあり、天地の間を雲や水を愛で、散った桜/花筏に目を細めて人は行きすぎる。そんな弥生の頃の風情である。葉留実さんはもともと詩人で、私は第一詩集『日常語の稽古』刊行当時から、注目していた女性詩人の一人である。平井照敏主宰の「槙」誌で、ご主人の村嶋正浩さんとならんでいる彼女の名前を発見したときは、「俳句もやるんだ!」と思わずニヤリとした。数年前に詩人の会で久しぶりにお目にかかったのに、今年1月に逝去されたと聞いて言葉を失った。「槙」がなくなった後、「翡翠」誌に移った彼女の俳句をずっと拝見していた。鈴木章和主宰は「どの句にも、そのままの彼女自身がいて、ときに清楚な含羞を見せている」とコメントしている。同誌最新号冒頭には葉留実さんの八句が掲げられている。「長旅の川いま海へ大晦日」「浮世はなれ彼の世へゆく日冬銀河」。今は「彼の世」の春のどのあたりを、ゆったりと「長旅」していらっしゃるだろうか。合掌。「槙」231号(2000)所載。(八木忠栄)


April 1542009

 甕埋めむ陽炎くらき土の中

                           多田智満子

ゆえに甕を土のなかに埋めるのか――と、この場合、余計な詮索をする必要はあるまい。「何ゆえに」に意味があるのではなく、甕を埋めるそのこと自体に意味があるのだ。しかし、土を掘り起こして甕をとり出すというのではなく、逆に甕を埋めるという行為、これは尋常な行為とは言いがたい。何かしら有形無形のものを秘蔵した甕であろう。あやしい胡散臭さが漂う。陽炎そのものが暗いというわけではあるまいが、もしかして陽炎が暗く感じられるかもしれないところに、どうやら胡散臭さは濃厚に感じられるとも言える。陽炎ははかなくて頼りないもの。そんな陽炎がゆらめく土を、無心に掘り起こしている人影が見えてくる。春とはいえ、土のなかは暗い。この句をくり返し眺めていると、幽鬼のような句姿が見えてくる。智満子はサン=ジョン・ペルスの詩のすぐれた訳でも知られた詩人で、短歌も作った。俳句は死に到る病床で書かれたもので、死の影と向き合う詩魂が感じられる。それは決して悲愴というよりも、持ち前の“知”によって貫かれている。157句が遺句集『風のかたみ』としてまとめられ、2003年1月の告別式の際に配られた。ほかに「身の内に死はやはらかき冬の疣」「流れ星我より我の脱け落つる」など、テンションの高い句が多い。詩集『封を切ると』付録(2004)所収。(八木忠栄)


April 2242009

 つじかぜやつばめつばくろつばくらめ

                           日夏耿之介

は「つばくろ」「つばくら」「つばくらめ」などとも呼ばれ、「乙鳥(おつどり)」「玄鳥(げんちやう)」とも書かれる。「燕」は夏の季語とまちがわれやすいけれど、春の季語である。しかも「燕の子」だと夏の季語となり、「燕帰る」は秋の季語となる。それだけ四季を通じて、私たちに親しまれ、珍重されてきた身近かな鳥だということなのであろう。さて、耿之介の詩句には、たとえば「神の聖座に熟睡(うまい)するは偏寵(へんちょう)の児(うなゐ) われ也/人畜(もの)ありて許多(ここだく)に寒夜(かんや)を叫ぶ……」という一例がある。漢語の多用や独自な訓読など、和漢洋の語彙を夥しく散りばめた異色の詩のスタイルで知られた耿之介が、反動のように平仮名だけで詠ったのが掲出句。しかも春の辻風つまり旋風に煽られて、舞うがごとく旋回するがごとく何羽もの燕たちが勢いよく飛び交っている情景だろう。燕は空高くではなく低空を素早く飛ぶ。「つばめつばくろつばくらめ」と重ねることによって、燕たちがたくさん飛んでいる様子がダイナミックに見えてくる。勢いのある俳句である。俳号は黄眠。『婆羅門俳諧』など二冊の句集があり、「夏くさやかへるの目玉神のごとし」という句もある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


April 2942009

 春徂くやまごつく旅の五六日

                           吉川英治

五の「春徂(ゆ)くや」は「春行くや」の意。「行く春」とともによく使われる季語で春の終わり。もう夏が近い。季節の変わり目だから、天候は不順でまだ安定していない。取材旅行の旅先であろうか。おそらくよく知らない土地だから、土地については詳しくない。それに加えて天候が不順ゆえに、いろいろとまごついてしまうことが多いのだろう。しかも一日や二日の旅ではないし、かといって長期滞在というわけでもないから、どこかしら中途半端である。主語が誰であるにせよ、ずばり「まごつく」という一語が効いている。同情したいところだが、滑稽な味わいも残していて、思わずほくそ笑んでしまう一句である。英治は取材のおりの旅行記などに俳句を書き残していた。「夏隣り古き三里の灸のあと」という句も、旅先での無聊の一句かと思われる。芭蕉の名句「行く春や鳥啼き魚の目は泪」はともかく、室生犀星の「行春や版木にのこる手毬唄」もよく知られた秀句である。英治といえば、無名時代(大正年間)に新作落語を七作書いていたことが、最近ニュースになった。そのうちの「弘法の灸」という噺が、十日ほど前に噺家によって初めて上演された。ぜひ聴いてみたいものである。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


May 0652009

 落梅の多少の径や夏に入る

                           安西冬衛

時記の「立夏」には、傍題として「夏に入る」「今朝の夏」「夏来たる」等々がある。立夏は陽暦の5月6日頃とされる。つまり暦の上での夏は、今日あたりから立秋8月8日の前日頃までということになる。♪卯の花のにおう垣根にホトトギス……夏は来ぬ。掲出句では卯の花ではなくて落梅である。「梅」は春の季語だが、「落梅」は歳時記にはないようだ。「青梅」や「梅干す」となると夏。「落梅」には「散る梅の花」の意もある。けれども、ここでは「落ちた梅の実」の意である。梅の花につづいて桜の花も散りはてた新緑のこの時季、梅の木の下で見上げると、もうかわいい青梅が葉かげに幾粒も寄り合っている。季節の移り変わりと植物の律儀さには、改めて感心させられる。「径」はこみちとか山路などの意味がある。こみちを歩いていて、ふと梅の木の下にいくらかの梅の実がパラパラと落ちているのを発見して、思わず「ああ、もう夏か」という驚きを、今さらのように噛みしめているのである。「落梅」と「夏に入る」のとり合わせがとてもすがすがしい。安西冬衛と言えば、春に「韃靼海峡」を越えた「てふてふ」は、今頃どのあたりを飛んでいるのだろうか? どんな虫になったか?―――と想像をめぐらしてみたくなる。冬衛が残した俳句は少ないが、ほかに「喰積の減らでさびしき二日かな」という新年の句もある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


May 1352009

 深川や低き家並のさつき空

                           永井荷風

五「深川や」のすべり出しで、下町の景色がパノラマのように広がる。もちろんノッポやデブの建物などない時代、かつての下町風景である。しかも五月晴れの空が果てしなく広がっている。初夏の空気はどこまでも澄んでいただろうし、時間もゆったり刻まれていたことだろう。五月晴れの空の下に、肩寄せ合っている「低き家並(やなみ)」がうれしい。そこに慎ましい日々を、マメに営む人々の姿も見えてくるようだ。「さつき」は「早苗月」の略とするのが一般的だそうである。江東区深川は下町の代表とされる。地名のおこりは、江東の湿地帯を開拓した深川八郎右衛門にちなんでいるとか。隅田川と荒川にはさまれて、運河や小さな川などが縦横に走る一帯である。小石川生まれの荷風が好んで浅草や深川あたりを逍遥し、数々の名作や日記を残したことは改めて記すまでもない。さつきを詠んだ荷風の句に「青梅の屋根打つ音や五月寒」がある。風景の広がりを詠んだ掲出句に対し、こちらの句は音を詠んでいる。今年は荷風没後五十年。好んで郊外を散歩したわけを、荷風は「平生、胸底に往来している感想によく調和する風景を求めて、瞬間の慰謝にしたいため」と書き残している。『荷風句集』(1948)所収。(八木忠栄)


May 2052009

 鶯のかたちに残るあおきな粉

                           柳家小三治

は「春告鳥」とか「花見鳥」とも呼ばれるように、季語としては通常は春である。けれども、東北や北海道では夏鳥とされ、「老鶯」の場合は晩春から夏にかけてとされるのだから、この時季にとりあげてもよかろう。鶯はきれいに啼く声や鮮やかな鶯色、つまり声と色彩に注目して詠われることが多い。俳句では「鶯」の一語に、すでに「啼いている鶯」の意味がこめられているから、「啼く鶯」とも「鶯啼く」とも詠む必要はない。小三治は、ここでは鶯の「かたち」から入って、青黄粉の「あお」に到っている。そこに注目した。餅か団子にまぶして食べた青黄粉が、皿の上にでもたまたま残った、そのかたちが鶯のかたちに似ていることにハッと気づいたのであろう。青豆を碾いた青黄粉の色は鶯色に近いし、そのかたちに可愛らしさが感じられたのであろう。黄粉も青黄粉も、今は和菓子屋でなければ、なかなかお目にかかれなくなった。この投句があった東京やなぎ句会の席に、ゲストで参加していた鷹羽狩行はこの句を“天”に選んだという。そして「すばらしい。歳時記を出す時には〈鶯餅〉の例句に入れたい」とまで絶賛したと、狩行は書いている。青黄粉といえば、落語に抹茶とまちがえて青黄粉と椋の皮を使ったことで爆笑を呼ぶ「茶の湯」という傑作がある。その噺が小三治の頭をちらりとかすめていたかも……。小沢昭一『友あり駄句あり三十年』(1999)所収。(八木忠栄)


May 2752009

 ひねれば動く電気仕掛の俳句かな

                           小林恭二

句は思うように、満足のいく作品はなかなかできない。ひねってもたたいても、なかなか……。いっそ電気仕掛でポンとできあがる俳句というものがないものか。四苦八苦した挙句にできたのが掲出句かもしれない。シロウトはシロウトなりに、専門家は専門家なりに、そんな空想にあそぶこともあろう。苦しまぎれのわりにつらい句ではない。むしろユーモラスに仕上がっているのはさすがである。いや、四句八句して戯れながらできた俳句かもしれない。無季句だが、春夏秋冬を通じて電気仕掛を所望したい気持ちを読みとることができる。「電気仕掛」が懐かしい響きをともなって愉快ではないか。たしかに電気文化の時代があったよなあ。今どきなら「コンピューター仕掛」とでもなるのだろうけれど、二十年ほど前の作ゆえ「電気」。「電気仕掛」が切実でありながら、同時にユーモラスな電磁波を放っている。俳句は「詠む」とも「ひねる」とも言われる。世におびただしい俳句が日々量産されているけれど、「ひねれば動く電気仕掛」とは、飽くことなく量産されている俳句に対する、強烈なアイロニーを含んでいるようにも解釈できる。恭二の初期句集『春歌』には「遊戯する胸に皺ある怪獣よ」「はっきり言ふお前は異常な日時計だ」など、奔放な無季句がいくつもおどっている。『春歌』(1991)所収。(八木忠栄)


June 0362009

 蛇の衣草の雫に染まりけり

                           巌谷小波

年ほど前に房総の山間を歩いていたとき、偶然に蛇の衣をまるごと見つけた。垣根にまだ脱ぎたてといった感じで、生なましく濡れて光っている衣に思わず息を呑んだ。まだ濡れている衣の生なましさと妖しい美しさ。おそるおそるそれを破れないように垣根からはずし、そっと持ち帰った。頭のてっぺんから尾の先まで60cm余りあった。乾いてから額縁に入れて今も部屋に飾ってある。掲出句の「雫に染まりけり」の息づいているような美しさに、思わず目がとまった。朝まだきだろうか、雨があがって間もない頃の実景だろうか。そのものは蛇の「かわ」ではなく、まさに「きぬ」としか呼びようのない繊細さである。「蛇の殻」とも呼ぶし、意味はその通りではあるけれど、「衣」のほうがあの実物にはふさわしい。「蛇皮」とは意味が違う。「蛇の衣」がもつ繊細さと「草の雫」の素朴な美しさ、その取り合わせが生きている。富安風生の句に「袈裟がけに花魁草に蛇の衣」があるが、私が発見したそれも「袈裟がけ」という状態だった。蛇の脱皮は年に五、六回くり返されるという。マムシもアオダイショウもヤマカガシも、蛇は夏の季語。小波は白人会を主催して、軽妙洒脱な俳句をたくさん残した。「月細く山の眠を守りけり」。句集『さゝら波』がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


June 1062009

 紫陽花に馬が顔出す馬屋の口

                           北原白秋

陽花が咲きはじめている。紫陽花はカンカン照りよりはむしろ雨が似合う花である。七変化、八仙花―――次々と花の色が変化して、観る者をいつまでも楽しませてくれる。花はてんまりによく似ているし、また髑髏にも似た陰気をあたりに漂わせてくれる。“陽”というよりは“陰”の花。それにしても、馬屋(まや)の入口にびっしり咲いている紫陽花と、長い馬の顔との取り合わせは、虚をついていて妙味がある。今をさかりと咲いている紫陽花の間から、のっそりと不意に出てくる馬の顔も、白秋にかかるとどこかしら童謡のような味わいが感じられるではないか。そういえば白秋のよく知られた童謡のなかでは、野良へ「兎がとんで出」たり、蟹の床屋へ「兎の客」がやってきたりする。この句はそんなことまで想起させてくれる。紫陽花の句では、安住敦の「あぢさゐの藍をつくして了りけり」が秀逸であると私は思う。白秋の作句は大正十年(小田原時代)からはじまっており、殊に関東大震災を詠んだ「震後」三十八句は秀抜とされている。その一句は「日は閑に震後の芙蓉なほ紅し」。ほかに「白雨(ゆふだち)に蝶々みだれ紫蘇畑」「打水に濡れた小蟹か薔薇色に」などに白秋らしい色彩が感じられる。句集に『竹林清興』(1947)がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


June 1762009

 海月海月暗げに浮かぶ海の月

                           榎本バソン了壱

水浴シーズンの終わり頃になるとクラゲが発生して、日焼けした河童たちも海からあがる。先日(5月下旬)東京湾で、岸壁近くに浮かぶクラゲを二つほど見つけた。「海月」はクラゲで「水母」とも書く。ミズクラゲ、タコクラゲ、食用になるのがビゼンクラゲ。近年はエチゼンクラゲという、漁の妨害になる厄介者も大量発生する。掲出句は海水浴も終わりの時節、暗い波間に海月がいくつも浮かんで、まるで海面を漂う月を思わせるような光景である。実際の月が映っているというよりも、ふわふわ白く漂う海月を月と見なしている。解釈はむずかしくはないが、「海月(くらげ)」と「暗げ」は了壱得意のあそびであり、K音を四つ重ねたのもあそびごころ。「海の月」と「天の月」をならべる類想は他にもあるが、ここはまあそのあそびごころに、詠む側のこころも重ねて素直にふわふわと浮かべてみたい。了壱は「句風吹き根岸の糸瓜死期を知る」というあそびごころの句にも挑戦して、既成俳壇などは尻目に果敢に独自の「句風」を吹きあげつづけている。かつて、芭蕉の「夏草や兵共が夢の跡」を、得意のアナグラムで「腿(もも)が露サドの縄目の痕(あと)付くや」というケシカランあそびで、『おくのほそ道』の句に秘められた暗号の謎(?)をエロチックに解明してみせて、読者を驚き呆れさせた才人である。そう、俳句の詩嚢は大いにかきまわすべし。『春の画集』(2007)所収。(八木忠栄)


June 2462009

 梅雨晴れや手枕の骨鳴るままに

                           横光利一

来「梅雨晴れ」は、梅雨が明けて晴れの日がつづくという意味で使われたらしいが、変わってきたのだという。つまり梅雨がつづいている間に、パッと晴れる日があったりする、それをさしている。掲出句もまさにそうした一句であろう。鬱陶しい梅雨がつづいている間は、あまり外出する気にもなれない。所在なく寝ころがって手枕(肘枕)して、雑誌でも開いていたのか、ラジオを聴いていたのか、それともやまず降る窓外の雨を眺めていたのか。……長い時間そんな無理な姿勢をしていたので、腕が痛いし、骨がきしんで悲鳴をあげる。そうした自分に呆れているといった図であろうか。畳の間にのんびり寝ころがって、そのような姿勢をつづけてしまうことだってある。浴衣かアンダーシャツ姿で、だらしなくごろりとして無聊を慰めるひとときは、一種の至福の時間でもある。覚えがあるなあ。「骨鳴るままに」と詠んだところに、自嘲めいたアイロニーが読みとれる。利一は門下生を集めた「十日会」で俳句を唱導し、「俳句は小説の修業に必要だ」とまで言って、自らも多くの俳句を残した。夏の句に「日の光り初夏傾けて照りわたる」「静脈の浮き上り来る酷暑かな」などがある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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