福田繁雄氏没。家の入口がどこにあるのか分らないほどの徹底ぶりだった。(哲




2009ソスN1ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1612009

 東山三十六峰懐手

                           西野文代

文字の句である。句の表記について漢字にするか、ひらがなにするかはときどき迷うところ。例えば、桜と書くか、さくらと書くか。(もちろん櫻と書く選択もあろうが)ひらがなにするとやわらかい感じになる。あるいはさくらのはなびらの質感が出ると思われる方も居るかも知れない。一方で、桜と書くと一字であるために視覚的に締って見える。さくらは拡散。桜は凝固である。俳句は散文や散文的な短歌に対し凝固の詩であるとみることもできる。一個の塊りのような爆弾のような。この名詞をどうしてひらがなにしたのですかと尋ねると、あまり漢字が多くて一句がごつごつするのでと言われる作者もいる。僕なら凝固、凝集の効果の方をとる。この句、だんだん俯瞰してゆくと一行がやがて一個の点にみえてくるだろう。俳句表現が一個の●になるような表記。俳句性の極致。別冊俳句『平成俳句選集』(2007)所収。(今井 聖)


January 1512009

 女正月眉間に鳥の影落つる

                           飯島晴子

らく今日の日を「成人の日」として馴染んでいたが、それも昔のこと、ハッピーマンデーの導入で「成人の日」は第2月曜日と相成り、休日でない15日は未だに居心地が悪い。もっとむかしは小正月を女正月と呼び祝っていたようだが、私にとっては死語に近い。歳時記を読むと「十四日の夜や女の年取りと呼んで、男が女の食事を全部作ることもあり、また十五日の昼夜に女だけ酒盛りをする地方もある」と書いてある。(平井照敏編「新歳時記」より)要するに正月に忙しかった女が家族や男の世話をせずに、大手を振って出かけられる日。というわけだ。掲句をみると、眉間に落ちる鳥の影は眉をひそめた女の顔も連想させる。家事を置いて出かけることにどこか後ろ暗さが伴うのだろうか。今はわざわざ旦那の許可を得なくとも奥方達はさっさと何処へでも出かけてゆく。昭和30年生まれの私にしてこの馴染みのなさであるから、女と男の性差にもとづいた季語などはますます遠くなることだろう。作者にとって思い入れのある季語なのか、いくつか作例があるが、いずれもどこか翳りを宿しているように思う。「大根葉の青さゆゆしき女正月」「石鹸の荒き日影や女正月」「俳句研究別冊」『飯島晴子読本』(2001)所収。(三宅やよい)


January 1412009

 サラリーマン寒いね東スポ大切に

                           清水哲男

年からの世界的な不景気のことを、新年早々からくり返したくもない。けれどもサラリーマンに限らず、自営、新卒の人たちも含めて、このところのニッポンの寒さは一段と厳しい。何年も前に作られた哲男の句がピッタリするような世の中に相成りました。もっとも景気の良し悪しにかかわらず、通勤するサラリーマンがスポーツ紙に見入っている図は、どこかしら寒々として見える。私もサラリーマン時代には、電車のなかや昼休みの喫茶店でよく「東スポ」や「スポニチ」を広げて読んでいた。売らんかなのオーバーでバカでかい見出し文字や大胆な報道が、サラリーマンの鬱屈をしばし晴らしてくれる効果があった。掲出句の場合、いきなり「サラリーマン」ときて「寒いね」の受けがピシリと決まっている。せつなくもやさしく同病(?)相憐れんでいるのかもしれない。この場合、冬の「寒さ」ばかりではあるまい。かつて「♪サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ・・・・」とも歌われたけれど、私の経験から言えば気楽な反面、憐れな稼業でもあることは骨身にしみている。おそらく若いサラリーマンであろう。広げている新聞が日経でも朝日でもなく、東スポであるところが哀しくもうれしいではないか。若いうちから日経新聞(恨みはございませんが)に真剣に見入っているようでは、なんとも・・・・。下五の「大切に」に作者の毒を含んだやさしい心がこめられている。憐れというよりもユーモラスで暖かい響きが残された。『打つや太鼓』(2003)所収。(八木忠栄)




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