『チェ』が吉祥寺で上映中。フェリーニの『崖』や『甘い生活』も。見たいな。(哲




2009ソスN1ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2812009

 座布団を猫に取らるゝ日向哉

                           谷崎潤一郎

の日当りのいい縁側あたりで、日向ぼこをしている。その折のちょっとしたスケッチ。手洗いにでも立ったのかもしれない。戻ってみると、ご主人さまがすわっていた座布団の上に、猫がやってきて心地良さそうにまあるくなっている、という図である。猫は上目づかいでのうのうとして、尻尾をぱたりぱたりさせているばかり。人の気も知らぬげに、図々しくも動く気配は微塵もない。お日さまとご主人さまとが温めてくれた座布団は、寒い日に猫にとっても心地よいことこの上もあるまい。猫を無碍に追いたてるわけにもいかず、読みさしの新聞か雑誌を持って、ご主人さましばし困惑す――といった光景がじつにほほえましい。文豪谷崎も飼い猫の前では形無しである。ご主人さまを夏目漱石で想定してみても愉快である。心やさしい文豪たち。「日向ぼこ」は「日向ぼこり」の略とされる。「日向ぼっこ」とも言う。古くは「日向ぶくり」「日向ぼこう」とも言われたという。「ぼこ」や「ぼこり」どころか、あくせく働かなければならない人にとっては、のんびりとした日向での時間など思いもよらない。日向ぼこの句にはやはり幸せそうな姿のものが多い。「うとうとと生死の外や日向ぼこ」(鬼城)「日に酔ひて死にたる如し日向ぼこ」(虚子)。「死」という言葉が詠みこまれていても、日向ゆえ少しも暗くはない。潤一郎の俳句は少ないが、他に「提燈にさはりて消ゆる春の雪」という繊細な句もある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


January 2712009

 パー出した人の集まり冬日向

                           久保エミ

ループをおおまかにふたつに分けるときに採用するグーパーじゃんけん。各地にさまざまな種類があるようだが、だいたいは「グッとパッ」や「グーパーじゃん」など、安易な掛け声を伴い、グーとパーだけが使われる。あっちとこっちに分かれた組が、たまたま日向と日陰に移動した。何の根拠もないけれど、二択を選ぶときそれぞれの形から性格を反映するものだとすると、パーを出す人は明朗活発、グーを出す人は努力家というように思えてこないだろうか。そしておそらくパーを出す明るい人たちがぞろぞろと日向を陣取り、きゃっきゃと声をあげている様子が掲句から伝わってくる。輪郭のぼんやりした冬の日差しのなかで、思いがけず分割されたグループの明暗が、しかし全てに通じているようでなんだか可笑しい。そして、こういう句を出すひとはやっぱりパーを出す人なのだろうなぁ、などと深く納得するのである。わたしはといえば、最初にチョキを出す癖があるらしく、グーパーじゃんけんでも必ずチョキを出してしまい、「あーあ、もう一回」と仕切り直しをされるのだった。「船団第77号」所載。(土肥あき子)


January 2612009

 寒柝のはじめの一打橋の上

                           本宮哲郎

語は「寒柝(かんたく)」で冬、「火の番」に分類。火事の多い冬季には火の用心のために夜回りをしたものだが、その際の拍子木が「寒柝」だ。いまの東京などではすっかり廃れてしまったこの風習だが、まだ健在のところもあるようだ。掲句、一読してすぐに、芝居の一場面の印象を受けた。いわゆる「チョーンと柝(き)が入る」シーンである。すこぶる格好がよろしい。だが、句に詠まれているのは現実だ。いっしょに回る人以外には、真っ暗闇のなか、観客どころか人っ子一人いやしない。だから、ことさらに意識して橋の上から拍子木を叩きはじめることもないのであるが、そこはそれ、これから表で大きな音を出し、周辺の人々の日常世界を破るのであるからして、何らかのけじめをつけておいたほうがよい。そして同時に、しばし非日常を演じる自身への景気づけの意味からも、橋という絵になりそうな場所からはじめたというわけだろう。こういう時、ただ何となく打ちはじめ、何となく終わるわけにはいかないのが人情というものだ。観客など一人もいなくても、夜回りをする人の気分は、ほとんど役者のようにたかぶってもいるのだと思う。それにしても二度と聞けないだろが、寒夜ふとんの中にいて聞こえてきた「ヒノヨージン……」の声と拍子木の音。懐しいなあ。回っていた人には申し訳ないけれど、私には冬の風物詩なのであった。「俳句界」(2009年2月号)所載。(清水哲男)




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