電子ペーパーは印刷メディアの救世主か? わからないが大いに関心はある。(哲




2009ソスN1ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 3012009

 寒鴉やさしき屍より翔てり

                           坊城俊樹

場に着くやいなや「許せねえよ、鴉の奴。轢かれて死んだ猫の死体にむらがってやがる」と、車通勤の同僚が吐き捨てるように言った。年末まで木に残っていた柿を食べ尽すと鴉には食べ物が無くなる。ゴミ収集の日、きれいに分別され網を掛けられた大量の袋の前でいつまでも粘っている鴉をよく見かける。この句、鴉が動物の死体から飛び立つ。そういうふうにまず読める。そうすると「やさしき」の解釈が難しい。猫や犬や鳩など、死んだ動物の優しさを言うのは発想が飛びすぎる。この屍は鴉自身かもしれない。鴉が飢えの果てに力尽きる。息絶えた鴉の体から鴉の魂が飛び立つ。そう思うと「やさしき」が、憎まれ嫌われながら死んだ鴉の本性を言っているようにも思えてくる。『別冊俳句平成秀句選集』(2008)所収。(今井 聖)


January 2912009

 探梅や遠き昔の汽車にのり

                           山口誓子

ろそろ暖かい地方では梅が開き始める時期だろうか。浅ましくも「開花情報」をネットで検索してから出かけるのでは「探梅」の心には遠く、かと言ってこの寒さにあてなく野山をさすらう気持ちにはなかなかなれない。昭和49年に鉄道が無煙化して以来、汽車は観光のための見世物になってしまった。汽車が生活の交通手段にあり、会話の中でも汽車と電車を使い分けていたのは私たちの世代が最後かもしれない。「遠き昔の汽車」とは、むかし乗ったのと同じ型式の汽車にたまたま乗り合わせたという意味だろうか。そればかりでなく鳴響く汽笛に心をはずませた幼い頃の気分が甘酸っぱく甦ってきたのかもしれない。探梅は冬の寒さ厳しき折に先駆けて咲く梅を見つけにゆく旅。「遠き」が時間と距離の双方にかかり郷愁と同時に春を探しに行く未知の明るさを句に宿している。硬質な知的構成がとかく強調される誓子だが、この句にはみずみずしい叙情が感じられる。『凍港』(1932)所収。(三宅やよい)


January 2812009

 座布団を猫に取らるゝ日向哉

                           谷崎潤一郎

の日当りのいい縁側あたりで、日向ぼこをしている。その折のちょっとしたスケッチ。手洗いにでも立ったのかもしれない。戻ってみると、ご主人さまがすわっていた座布団の上に、猫がやってきて心地良さそうにまあるくなっている、という図である。猫は上目づかいでのうのうとして、尻尾をぱたりぱたりさせているばかり。人の気も知らぬげに、図々しくも動く気配は微塵もない。お日さまとご主人さまとが温めてくれた座布団は、寒い日に猫にとっても心地よいことこの上もあるまい。猫を無碍に追いたてるわけにもいかず、読みさしの新聞か雑誌を持って、ご主人さましばし困惑す――といった光景がじつにほほえましい。文豪谷崎も飼い猫の前では形無しである。ご主人さまを夏目漱石で想定してみても愉快である。心やさしい文豪たち。「日向ぼこ」は「日向ぼこり」の略とされる。「日向ぼっこ」とも言う。古くは「日向ぶくり」「日向ぼこう」とも言われたという。「ぼこ」や「ぼこり」どころか、あくせく働かなければならない人にとっては、のんびりとした日向での時間など思いもよらない。日向ぼこの句にはやはり幸せそうな姿のものが多い。「うとうとと生死の外や日向ぼこ」(鬼城)「日に酔ひて死にたる如し日向ぼこ」(虚子)。「死」という言葉が詠みこまれていても、日向ゆえ少しも暗くはない。潤一郎の俳句は少ないが、他に「提燈にさはりて消ゆる春の雪」という繊細な句もある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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