February 092009
空缶を蹴つて二月は過ぎやすし
林十九楼
夜の道だろう。落ちていた空缶を、たわむれに蹴ってみた。缶は寒い舗装路に乾いた音を立てて、道の端まで転がってゆく。それだけのことでしかない。が、路上でのこのような小さなアクションは、当人の気持ちに、それまでにはなかった微妙な変化をもたらすものだ。一言でいえば、故無き寂寞感のような感情がわいてくる。何かむなしい、何かせつない。それがちらりとにせよ、来し方の何かにつながって、より淋しくなってくる。作者は、今年で九十歳。つながった過去の何かがなんであるにせよ、同時に感じるのは時の移り行きの早さであろう。青春期も中年期も、あっという間に過ぎてしまった。それが寂寥の思いをいっそう増幅させ、そしてこのそれでなくとも短い二月もまた、これまでと同様に瞬く間に過ぎてしまうであろうことに思いが至るのだ。北村太郎の詩に「二月は罐をける小さな靴」というフレーズがある。またフェリーニの自伝的映画『青春群像』では、田舎町の寒い夜中の舗道で、酔っぱらったろくでもない五人の若者たちが、空缶を蹴りあうシーンが少し出てくる。缶を蹴ることから何かの感情がわいてくるのは、どうやら寒い季節が似つかわしいようだ。『二十年』(2009)所収。(清水哲男)
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