文学賞の贈呈式に朝から神奈川県海老名市まで。ここは駅前の情景が面白い。(哲




2009ソスN2ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 0922009

 空缶を蹴つて二月は過ぎやすし

                           林十九楼

の道だろう。落ちていた空缶を、たわむれに蹴ってみた。缶は寒い舗装路に乾いた音を立てて、道の端まで転がってゆく。それだけのことでしかない。が、路上でのこのような小さなアクションは、当人の気持ちに、それまでにはなかった微妙な変化をもたらすものだ。一言でいえば、故無き寂寞感のような感情がわいてくる。何かむなしい、何かせつない。それがちらりとにせよ、来し方の何かにつながって、より淋しくなってくる。作者は、今年で九十歳。つながった過去の何かがなんであるにせよ、同時に感じるのは時の移り行きの早さであろう。青春期も中年期も、あっという間に過ぎてしまった。それが寂寥の思いをいっそう増幅させ、そしてこのそれでなくとも短い二月もまた、これまでと同様に瞬く間に過ぎてしまうであろうことに思いが至るのだ。北村太郎の詩に「二月は罐をける小さな靴」というフレーズがある。またフェリーニの自伝的映画『青春群像』では、田舎町の寒い夜中の舗道で、酔っぱらったろくでもない五人の若者たちが、空缶を蹴りあうシーンが少し出てくる。缶を蹴ることから何かの感情がわいてくるのは、どうやら寒い季節が似つかわしいようだ。『二十年』(2009)所収。(清水哲男)


February 0822009

 手袋は手のかたちゆゑ置き忘る

                           猪村直樹

の上ではもう春です。それはわかっているのですが、依然として風は冷たく、もう少し冬に、はみ出してもらっていてもよいでしょうか。今日の句の季語は「手袋」、まだ冬です。この句を読んで印象に残ったのは、脱いだそのままの手袋が、手の形のすがたで、テーブルの上に置いてあるという視覚的なものでした。手はまだ冷たく、かじかんでいるがゆえに、脱いだ手袋をすぐにたたむことが出来なかったのでしょう。あるいは、家に帰ったら、ただならぬ出来事がおきあがっていて、手袋などにかまっていられなかったのかもしれません。いったい、脱ぎ捨てられた手袋の形は、どんなふうだったのでしょうか。何かを掴まえようとするかのように、虚空へ差し伸べられていたのでしょうか。あるいはテーブルにうつむいて、疲れをとっている姿だったのでしょうか。さきほどまで、びっしりと人の手が入っていたところには、今は冬のつめたい空気が流れ込んでいます。ところで、読んでいてひどく気になったのが「ゆゑ」の一語でした。朝の通勤電車の中で、僕はこの「ゆゑ」の意味するところをずっと考えていたのですが、どうにもすっきりとした解釈には至りませんでした。自分の手なら、どこかに置き忘れることもたまにはあると、言っているのでしょうか。『俳句鑑賞450番勝負』(2007・文芸春秋)所載。(松下育男)


February 0722009

 陶工の指紋薄れて寒明くる

                           木暮陶句郎

日の清水さんの一言に、暦の上でも何でも「春」は嬉しい、とあったが、立春の一日は、毎年そんな気持ちになる。寒明(かんあけ)と、立春。寒が明けて春が立つ、というわけでほぼ同義だけれど、寒明には、長かった冬ももう終わりだなあ、という心持ちがこもる。俳号の通り陶芸家でもある作者。この句、来る日も来る日も轆轤(ろくろ)を挽いていると、ほんとうに指紋が薄れるのかもしれないが、その表現に象徴される年月を、寒明くる、の感慨が受けとめて、じんわりと春の喜びを感じさせる。掲出句と並んでいる〈轆轤挽く春の指先躍らせて〉のストレートな明るさとは、同じ指先を詠みながら対照的だ。そういえば昨年、生まれて初めて轆轤を挽くという経験をした。もう半年以上経つが、濡れた土がすべってゆく、ざらっとしながらもなめらかな得も言われぬ感触は、はっきりと指先に残っている。思えば指ってよく働くなあ、などと思いつつじっと手を見る。「俳句」(2009年2月号)所載。(今井肖子)




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