「多摩テック」が秋に閉園。フリーとしての最初の仕事がここのPR紙だった。(哲




2009ソスN2ソスソス10ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1022009

 たちまちに車内に桜餅匂ふ

                           大島英昭

気に入りの近所の和菓子屋さんでは、立春をもって桜餅が並ぶようになる。桜の季節はまだ先だが、香りから春を思い出し、身体が素直に喜ぶことを実感できる瞬間である。桜の葉のあの独特の芳香は、殺菌効果も伴う「クマリン」という成分だそうだ。クマリンは木に付いているときには発することはなく、落葉となったときから生まれるという。そしてこれは、自樹が落葉する範囲に芽吹きを許さないテリトリー遵守が真の目的だというから驚く。まず花しか咲かないこと、落ちてより香る葉、そして60年ほどの寿命。桜が持つ数々の不思議は、どれも確固たる基準に裏打ちされているように思われる。桜の身内にしか理解できない、唯一の桜となるための美の基準である。謎めいていればいるほど、人間は桜という生きものに惑わされ、魅了されてやまないのだろう。などと満開の桜に思いを馳せつつ、桜餅を二つたいらげたのだった。〈日暮れより春めいてゆく家路かな〉〈桜蕊降るやをさなの砂の城〉『ゐのこづち』(2008)所収。(土肥あき子)


February 0922009

 空缶を蹴つて二月は過ぎやすし

                           林十九楼

の道だろう。落ちていた空缶を、たわむれに蹴ってみた。缶は寒い舗装路に乾いた音を立てて、道の端まで転がってゆく。それだけのことでしかない。が、路上でのこのような小さなアクションは、当人の気持ちに、それまでにはなかった微妙な変化をもたらすものだ。一言でいえば、故無き寂寞感のような感情がわいてくる。何かむなしい、何かせつない。それがちらりとにせよ、来し方の何かにつながって、より淋しくなってくる。作者は、今年で九十歳。つながった過去の何かがなんであるにせよ、同時に感じるのは時の移り行きの早さであろう。青春期も中年期も、あっという間に過ぎてしまった。それが寂寥の思いをいっそう増幅させ、そしてこのそれでなくとも短い二月もまた、これまでと同様に瞬く間に過ぎてしまうであろうことに思いが至るのだ。北村太郎の詩に「二月は罐をける小さな靴」というフレーズがある。またフェリーニの自伝的映画『青春群像』では、田舎町の寒い夜中の舗道で、酔っぱらったろくでもない五人の若者たちが、空缶を蹴りあうシーンが少し出てくる。缶を蹴ることから何かの感情がわいてくるのは、どうやら寒い季節が似つかわしいようだ。『二十年』(2009)所収。(清水哲男)


February 0822009

 手袋は手のかたちゆゑ置き忘る

                           猪村直樹

の上ではもう春です。それはわかっているのですが、依然として風は冷たく、もう少し冬に、はみ出してもらっていてもよいでしょうか。今日の句の季語は「手袋」、まだ冬です。この句を読んで印象に残ったのは、脱いだそのままの手袋が、手の形のすがたで、テーブルの上に置いてあるという視覚的なものでした。手はまだ冷たく、かじかんでいるがゆえに、脱いだ手袋をすぐにたたむことが出来なかったのでしょう。あるいは、家に帰ったら、ただならぬ出来事がおきあがっていて、手袋などにかまっていられなかったのかもしれません。いったい、脱ぎ捨てられた手袋の形は、どんなふうだったのでしょうか。何かを掴まえようとするかのように、虚空へ差し伸べられていたのでしょうか。あるいはテーブルにうつむいて、疲れをとっている姿だったのでしょうか。さきほどまで、びっしりと人の手が入っていたところには、今は冬のつめたい空気が流れ込んでいます。ところで、読んでいてひどく気になったのが「ゆゑ」の一語でした。朝の通勤電車の中で、僕はこの「ゆゑ」の意味するところをずっと考えていたのですが、どうにもすっきりとした解釈には至りませんでした。自分の手なら、どこかに置き忘れることもたまにはあると、言っているのでしょうか。『俳句鑑賞450番勝負』(2007・文芸春秋)所載。(松下育男)




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