敏感な人はもう花粉の飛散を感じているそうだ。春よ来いとも言えない心境。(哲




2009ソスN2ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 1322009

 着ぶくれ出勤の群集 の中で 岬のこと

                           澤 好摩

丹三樹彦さん提唱の「分かち書き」は一行表記の中の切れを作者の側から設定すること。そんなアキを作らずとも、切れ字が用いられている場合はもちろんのこと、意味の上で考えれば切れの箇所は明らかという考え方もあろうが、それは旧文法使用の場合。ときに定型音律を逸脱する現代語使用を標榜する運動を思えば分かち書きという方法も理解できる。しかし、現代語においても切れが明らかな箇所に一字アキを用いれば分かち書きの必然性が薄れる。空けなくたって切れるのは一目瞭然ということになる。この句のように「群集」から「の」につづくまでに一拍置けと指示されると、群集の渦の中に身をまかせて入った作者が「自分」に気づくまでの間合いがよくわかる。分かち書きの効果が発揮されていて作者から読者への要請が無理なく嫌味なく伝わるのである。個の在り方がナマの思念のまま出ている作品である。『澤好摩句集』(2009)所収。(今井 聖)


February 1222009

 名前からちょっとずらして布団敷く

                           倉本朝世

く布団に小学校のころ使ったノートの細長い空欄を思った。試験用紙もそうだけど、何度あの欄に名前を書き入れたことか。名前はほかでもない私の証。だけど、名前で呼ばれる私と内側に抱える自分とのずれは誰もが感じていることだろう。その名前から少しずらして敷く布団は季語としての布団じゃなくて、毎朝毎晩押入れから出し入れして敷く生活用品としての布団だろう。その布団にくるまれて眠るのは名前で呼ばれる昼間の私をはずれて夢の世界に入ること。「名前」と「布団」違う次元にあるようでどこか近いものを並べて日常に隠された違和感をするする引き出してくるのが川柳の面白さ。「煮えたぎる鍋 方法は二つある」なども、方法という言葉を置くと台所の鍋がこんなにも怖いものになるのかと、言葉の力を感じさせる句である。『なつかしい呪文』(2008)所収。(三宅やよい)


February 1122009

 冬の坂のぼりつくして何もなし

                           木下夕爾

な坂道をくだるとき、前方はよく見えている。けれども、坂道をのぼるときはもちろん前方は遠くまで見えているとはかぎらない。坂のむこうには空だけ、あるいは山だけしか見えていないかもしれない。その坂をのぼりきったところで、冬は何もないかもしれないのだ。いや、枯れ尽くした風景か冬の風物が、忘れ物のようにそこにあったとしても、まるで何もないように感じられるのだろう。春、夏、秋では「何もなし」とはならない。もっとも掲出句の場合は、現実の風景そのものというよりも、心象的な空虚感も詠みこまれているのではあるまいか。冬の寒々とした風景は、場合によってはもはや風景たり得ていないこともある。そこには作者の心の状態が、色濃く影を落としているにちがいない。懸命に坂をのぼってきてようやくのぼりきったのに、達成感よりもむしろ空虚感がぽっかり広がるのみで、作者の心に満たされるものとてない。ここに一つの人生論的教訓みたいなものまで読みとりたいと、私は思わないけれど、何やらそのようなものが感じられないこともない。寒々しい冬にふと感じられた、風景と心のがらんどう「何もなし」を、素直に受けとめておこう。夕爾には「樹には樹の哀しみのありもがり笛」という句もある。『菜の花集』(1994)所収。(八木忠栄)




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